色んなことがあったから、

ちゃんと言葉にしないと伝わらないということが、身に染みた。

こんなことわざわざ言うことじゃないとか、
興味がないんじゃないか?とか、
また今度にすればいいんじゃない?とか、
理由をつけては、伝えることをサボってきた気がする。

私自身、自分のルーツについて、
知りたいと感じるには、それなりに時間が必要だったように。

私には、両親それぞれのご先祖さまがいて、
息子たちはさらに、父親の両親のご先祖さまたちがいる。

ご縁があって、生まれた子どもたちは、
ご先祖さまの誰が欠けても存在することはなく、
たとえ血の繋がりはないとしても、
子どもたちのご先祖さまは、
やはり私にとって縁ある人たちだ。

長男に私の母方のルーツを伝えようと、
一泊2日で京都旅をすることにした。

京都は母の故郷だ。

初日は長男は仕事があったので、
先に京都に入って、友人に会ったりなどしていた。

夕方から長男が合流し、
馴染みの店に連れて行き、大満足してくれた。

翌朝、お疲れのご様子の息子が
寝坊している間に、宿の近くの御所と河合神社に参拝した。

早朝の御所はとてもスッキリとしていて、
人もまばらだった。
いろんなことを感じながら歩いた。


中山邸跡。
中山忠能の邸宅跡で、その娘が後の明治天皇である祐宮を産み、うぶ屋があったそうだ。

明治天皇については、すり替え説など、
色々囁かれているが、ここに祐宮という男の子が4歳まで過ごしたという事実は間違いないだろう。

他にも皇女和宮や、さまざまな公家の邸宅跡がある。学習院の始まりとなった場所もあった。

かつてこの場所は、御所を中心に、
この国の安寧を願って祈りを捧げてきたんだろう。

皇紀2679年。
神武天皇以来皇統を守り続けていた日本。

もちろん、いろんな天皇さんたちがいただろう。
皇統が危うい時もあったにちがいない。
今、愛子さまを巡る女帝案もあるが、
男系でなくてはいけない理由があるはずだ。

男女平等という問題とごっちゃにしてはいけない。これまでの女帝は、男系を守るための中継ぎである。なぜ、2679年も続いたのか?を見ていかなくてはいけない。

そんなこんなで、神武天皇の母である玉依姫を祀る河合神社へと足を運ぶ。

朝の麗らかな光に照らされてキラキラの本殿。
誰もいないので、祝詞をあげていると、
お掃除をされていた方と清々しい気持ちで
おはようございますとご挨拶した。

朝の散歩を終えて、ホテルに戻って、
長男と一緒に祖父母のお墓詣りへ。

母の父親である私の祖父は、石川県出身。
加賀藩前田家の家臣の家柄だったらしい。

祖母の先祖は、代々京都で太田備後守だった。
系図を遡ると、幕末の女傑といわれた津崎村岡局や、円山応挙などもいるらしい。


京都ではお墓に供えるお花といえば、
シキミのことで、いわゆる花ではない。
とても芳しい香りがする。

俵屋宗達の墓では?といわれるお墓はご近所さんだ。

10年以上ぶりに長男を連れてきた。

祖父は、オシャレでハンサムだったそうだ。
だから祇園の芸妓さんにも、とてもよくモテた。
それに、とても子煩悩な人で、
近所の子どもたちをみんな引き連れて
喫茶店でご馳走するような人だったらしい。
私が三歳の時に肺がんで亡くなった。
病院にお見舞いに行き、握手したのか最後だった。記憶の片隅にとても可愛がってもらったことを覚えている。
祖母は優秀で、なんでも器用にこなし、気丈で、強い女性だった。奉公に出されても、よく間に合う子だったそうだ。
私にとっては、おばあちゃんといえども、しつけを厳しくされた。たまに我が家へ遊びに来てくれると、嬉しい反面、どこか緊張感があった。
学生時代は、よく一人でおばあちゃんのところに泊まりにいって、ほうれん草のお浸しや天麩羅の揚げ方、お裁縫を教えてもらった。厳しい中に本当の優しさを感じていたので、大好きなおばあちゃんだった。

そんな二人は、再婚同士でそれぞれに連れ子がいた。二人の間にできたのが、双子の母と叔母、そして弟の叔父がいる。

祖母の祖母にあたる人の姉が、津崎村岡という人で、父親は津崎左京といい大覚寺門跡家臣。尊王攘夷派の近衛忠煕に仕えて、安政の大獄では2度投獄され、ひどい拷問を受けたようだ。
西郷隆盛とは深い親交があったようだ。
晩年は大覚寺の奥の直指庵を復興させ、婦女子の教育と救済に力を注いだらしい。

複雑に絡み合う家系の流れ。

遠い血筋ではあるか、嵐山の亀山公園に、銅像かあり、小さな頃からご先祖さまだと聞かされてきた。
嵐山は、幼少の頃からよく遊びにきていて、大人になった長男もそろそろこの風情がわかるかな?ということで、湯豆腐を食べにいく。


窓から眺める景色がたまりませんね。
ほっこりします。

そして午後からは三男も合流し、津崎村岡局の銅像にお参りさせていただいた。


それから、子どもの頃から馴染みのある
蚕ノ社と広隆寺へ。
いずれも秦氏に深い関わりがある。
蚕ノ社は、去年の台風で木が倒れて
現在復興中のため三ツ鳥居など立入禁止だ。
祖母はよくお蚕さんの話をしていた。
それに、養蜂の話もよく聞かされた。
太秦という地名からして、この一帯は秦氏にまつわる場所なのだ。ご先祖さんたちは、秦氏とも関わっていたのかもしれない。

広隆寺は、母が里帰りするたびに、遊びに行った。地元の人は、ここを太子さんと親しみを込めて呼んでいた。
日本最古の木造の弥勒菩薩は、いつみても美しい。

もう少しいくと、帷子ノ辻という場所もある。
ここは嵯峨天皇が寵愛したという檀林皇后にまつわる場所で、その地に伝わるエピソードが、最近学んでいる命波学と絡んでいて実に興味深い。

点と点が繋がり線となり、その線が複雑に絡み合う。

そして母の実家であり、
現在は叔父のいる太秦の某所へ。

叔父は、間もなく70歳になるそうだが、
とにかく元気でおもろい人。
子どもの頃から大好きだった。
映画関係者や芸能人が集う喫茶店。

幾度となくテレビでも紹介されている。

叔父の携帯のメール履歴には、
役所広司さんや高橋克典さん、
生田斗真くん、窪田正孝くん、風間俊介くんなどなど、沢山の名前が連なっている。笑
ちなみに芋洗坂係長とは大の仲良しらしい。

かつて、母も床屋の看板娘として、
俳優さんからモテた?らしい。笑

叔父はとにかくお客さんである役者さんが出る
舞台を観て、その長年の経験から、
率直な感想を伝えるので、
多くの俳優さんや女優さんが、とても頼りにしている。
叔父曰く、山村紅葉さんは、叔父のファンらしい。叔父が、、でない。叔父の、、だ。笑

超久しぶりに会う息子たちの突然の訪問に、
とても喜んでくれた。



沢山の思い出話しをしながら、
叔父の記憶力には脱帽する。

だから、
あれだけたくさんの俳優さんや女優さんが、
なんとしてでも通ってきて、
叔父の料理やトークを楽しみにくるんだろなーと感じた。

叔父とはよく血脈の話をする。
京都の人って、比較的血にこだわる話題が多い気がする。御所で感じた皇統を守るということが、京都の人間にとって文化となっているのかもしれない。

男のエネルギーは命そのもの。
女はエネルギーを形にする力。

かつて、堅っ苦しいなぁと感じたこと。
男女平等とか、女性解放運動とか、偽の民主主義とか、表面的なことに随分と踊らされてきたものだ。

これからは、本質の時代だ。
私たちの根っこにあるもの。
きっと、誰がどうでもなくちゃんと繋がってて、
それ大切にするために、血脈という言葉があったんじゃないかなと。

この血は、まさに私たちが生きる証であり、
大切にしていかなくてはいけないもので、
人を差別するものではない。

みんな違って、みんないい。
そして根っこはおんなじ。

まるーーくおさまる世の中なんだ。

生きとし生けるもの、地球に優しい世の中になりますように。


おまけ映像。
叔父の店には松井秀喜もファンだそうで。笑
超レアな日本人初MLB100本塁打を達成した時のサイン入りユニフォームがありました。

松井秀喜の座右の銘は、
人間万事塞翁が馬