もうすぐ平成が終わる。
平成最後の4月26日,
我が息子たちへ、この日の思いを綴っておこうと思う。
平成元年4月26日。
パリのアメリカンチャーチで、
私は結婚式を挙げた。
その頃、日本はバブルに突入し、
海外挙式ブームのはしりだった。
本当はイタリアで挙げたかったが、
イタリアはルーズで確実性がないという理由で、
フランスで挙式することになった。
セーヌ川に近い、その教会に偶然23年後に
立ち寄ることになるとは、知る由も無い。
挙式の朝、
パリのホテルは、結婚する私たちに
花束とフルーツの盛り合わせで祝福してくれた。
リムジンのお迎えがやってきて、
教会に向かう。
教会の牧師先生はとても穏やかな人だった。
礼拝堂に行く前に、打ち合わせがあった。
その日は風の強い日で、
礼拝堂へ向かう渡り廊下で、
見学に来ていた地元の子どもたちに
ヒューヒューと冷やかされ、
それを満面の笑みで応えた。
突風が吹いて、ヴェールを飛ばされそうになり、
頭から外れたヴェールをガシッと捕まえた
たくましい花嫁が私だった。
日本にいる家族のために、
カメラクルーが同行し、
インタビューを受けた。
どんな家庭にしたいですか?
友だちが気軽にやってこられるような、
楽しい家庭にしたいです。
私には子どもの頃からずっとやりたい仕事があった。その仕事に就いて、2年目にあたる、その年の暮に長男が誕生した。
大好きな仕事だったから、
子育てとの両立はできないと、
潔く辞めることにした。
未練がないといえば嘘になる。
だが、それ以上に子育ては楽しかった。
長男は、とてもユニーク。
愛嬌のある子で、周りのみんなを笑わせていた。
夫は仕事が忙しく、子育てに参加することはなかった。
私はこんな素晴らしい子育てを独り占めできるので、なんの不服もなかった。
長男誕生から一年半後に、次男誕生。
ほぼ年子のお兄ちゃんからヤキモチを妬いて、いじめられないよう、できるだけ放っておくようにした。
おかげで大きく逞しく育ち、
いわゆる発育曲線をはるかに飛び抜けた。
いつも溢れんばかり笑顔で、
お兄ちゃんの後を楽しそうに
ついていっては、みんなに可愛がってもらった、
さらに、2年後に三男が生まれるころには、
すっかり私の手を離れていた。
だから、三男には思いっきり手をかけられた。
おメメのおっきな甘えん坊さんになった。
とにかく、可愛い、可愛いと育てた。
ところが三男を身ごもった頃、
私は大きな過ちに気づいてしまった。
私は夫を愛していなかった。
長女ゆえの、周りが納得する生き方を演じていたのかもしれない。
夫は本来の私とは、かけ離れたものを望んでいることも、感じるようになった。
私である意味がわからなくなってしまった。
長きにわたって、この苦悩を味わうことになる、
どっぷり子育てで、社会との隔たりに焦ることもあった。子育てには10年専念した。
三男を延長保育に応じてくれる幼稚園に転園させて、まずはパートとして働きだした。
大好きだった仕事に戻るには、離れすぎてしまった。
もともと働くことは好きだし、
夢中になって働いている間は、苦悩から解放される。
つい、残業してしまう。
真っ暗な園庭で、他の園児たちはみんなお迎えに来てもらい、一人残ってしまった我が子を急いで迎えにいく。
私の顔を見るなり、大喜びで駆け寄る三男に
申し訳無い気持ちが溢れてくる。
次男も私が働きだしたから、
誰もいない家に帰りたくなくて、
マンションの下でランドセルを開いて、
宿題をしているよ。
と、同じマンションの人に聞いて、こちらもいたたまれない気持ちになった。
私は自営業の両親に育てられた。
いつも働く親の背中を見ていた。
だから自然に親を尊敬したし、お手伝いも自ら進んでした。
母親が外に出て働くというのは、
本当に無理があるのだなぁと感じた。
働くって、なんだろう?
サラリーマンっていう働き方でいいんだろうか?
そんな疑問を抱くことになる。
この頃、夫の仕事もうまくいかなくなり、
世間的には大変なことがたくさんあったが、
私にはむしろ、夫婦としてやり直せる
最大のチャンスに感じ、ようやく苦悩から脱出できると期待していた。
がしかし、夫は私が応えようとすることを
望んではいなかった。
私は何のために、この人と一緒になったのだろう?と、さらに自分の存在価値を見つけられなくなっていた。
それでも息子たちは、それぞれ個性的に成長した。
長男は、我が道を行くので、
よく学校に呼び出された。
自分をレジスタンスと呼んで、
よく学校に反発していた。
呼び出された帰り道、話を聞けば、
あーー私の息子だなぁと感じる。
その生き方、損するかもよー。と言うと、
それでもいいと言う。
友だちを大切にする優しい子だ。
そのことは、友だちが一番よく知っている。
人の道に反しさえしなければ、
好きにすればいいさ。
母ちゃんが頭下げればいいだけのことだから。
でも、自分のことは自分で責任をもちなさいよ。
わかってるよ。
なんて話したりして。
のちに、彼はその通り自らに責任をもって、
自分の道を進む子になった。
次男は、ナイーブで優しい子だった。
少々不器用なほどだったが、
私が夫に対して苛立っていると、
よく手伝っては、私を癒してくれた。
だから、離婚をしようと思うと話をしたとき
一番怒りを露わにした。
なんのために、俺は頑張ってきたんだ!!って。
それでも、最後は私を許してくれて、
家を出ていく私を、手伝ってくれたのは次男だけだった。
情にもろい分、いつも何かに怒りを抱いているところがある。
小さかった頃の、溢れんばかりの笑顔を見せて欲しいと、つい今でも思ってしまう、
あの子は一番傷つきやすいのだ。
三男は、サッカーが大好きで、
クラブチームで朝から晩までサッカー三昧だった。勉強は興味のないことは一切せず
びっくりするような通知表を平気で持ち帰る子だった。
あんなに勉強嫌いかと思っていたけれど、
今では人の上に立ち、育てる仕事をしていて、
沢山の本を読み、自ら勉強を怠らない。
そして学んだことを、実践して、失敗してもそれを力に変えるようになっていた。
クラブチームで毎日長時間にわたって厳しい練習を仲間たちと共に続けたことが、大きな力になっているなぁと思う。
チームスポーツは、互いの能力を認め合い、高め合う。監督から蹴飛ばされたりしたが、彼らの中では納得できるものだったらしい。
私に一番よく似て、旅が好き、海が好きだ。
結婚して23年経ち、
たまたま友人とフランスを旅した。
パリで迷ってしまい、道を聞こうと入った建物が結婚式を挙げたアメリカンチャーチだった。
はじめ気づかなかったのだが、
あの渡り廊下を見たときに、ハッと思って、
建物の看板を確認すると、アメリカンチャーチと
書いてあった。
結局その年に、離婚をするのだが、
まるでその報告をしにいったかのような
出来事だった。
夫は離婚後、
もともと悪かった体調がさらに悪化して、
入退院を繰り返していた。
親からいただいた身体はとても丈夫な人なのに、
徹底的なほど自分の身体を傷めつけた。
私に対する当てつけなのか?
それもまた、私の苦悩の一つでもあった。
別れることで、健康を自分自身の問題と捉えて、
大切にしてほしいという期待もあった。
ここ数年は長男が同居して、
病状が落ち着くと、自宅療養していたが、
発作を起こすことがあり、
長男はそれを敏感に察知して
何度か命を救っていた。
私は入院のたびに、お見舞いに行っては、
いろんな話をした。
他人になってからの方が、
話しやすいってことあるよね。
ありがとう。
この五文字の言えない人だった。
今年に入り、家で倒れて救急車で病院に
運び込まれ、入院していたので、
いつものようにお見舞いに行き、
必要なものを買ってもっていった。
きっと彼には、とても勇気が必要だったろう。
ありがとね。と言ってくれた。
私は、どうかこの言葉を
息子たちにも言ってほしいとお願いした。
お見舞いの帰り際にすっかり痩せて、
弱ってしまった足を、さすって、
頑張ってねと交わした。
それから、
土曜日に退院することになりました😊
と嬉しそうなメールが届いた。
土曜とは、3月30日。
お見舞いの時の状態を考えると、
時期尚早な気はした。
あの嬉しそうなメールを見ると、
よほど家に帰りたかったのだろう。
そして3日後の平成最後の4月1日。
エイプリルフールで、新元号発表の日。
私は奈良の薬師寺の修二会に参加していて、
寺に参籠していた。
大広間にたくさんの布団が敷き詰められ、
休んでいると、1日になったばかりの
午前一時半ごろ、携帯のバイブで目が覚めた。
画面を見ると、長男からで、
嫌な予感がして、声を押し殺しながら、
電話に出た。
もしもし。どうした?
オヤジ、もうあかんわ。
そうなの?意識は?
脳死状態。とりあえず人工呼吸器つけて、延命してもらってる。
わかった。今奈良にいるから、始発で名古屋に戻るね。
午前5時からの法要に参加する。
薬師如来と日光菩薩、月光菩薩が、
真っ暗なお堂の中で炎に浮かび上がるのを
眺めていた。
力の限り声を振り絞って叫ぶ悔過法要が、
頭の中を渦巻いていた。
始発電車の中では、
色々あったけれど、
不思議なほど感謝しか思い浮かばなかった。
東京にいた三男も帰ってきた。
久しぶりに、家族五人が病室に揃った。
色々な事情で、悠長に危篤を見守る余裕さえなかった。
ここ数年一番世話をしていた長男が、
意識のない父親の顔をじっと眺めている。
一体どんな思いなんだろうと思うと、
胸が熱くなった。
父親の微妙な変化を感じては、
早く病院に行けと言ってくれていたにもかかわらず、決して言うことを聞かなかったらしい。
それでも最期まで、時には親に学びすら与えながら、見てくれていた。
私は長男に尋ねてみた。
お父さん、あんたにありがとうって言ってくれた?
いや、一度もないね。
そっか。
言わなかったんだ。
言ってくれなかったんだ。
素直じゃなかったからね。
でも、魂はきっとありがとうって言ってるよ。
どうだかな。
平成最後のエイプリルフールに倒れて、
その日の夜に旅立ちました。
新元号の発表を聞く余裕すらなかった。
私は母親として手伝うどころか
翌日の葬儀の準備で
頭がぼーっとしていたためか、
交通事故を起こしてしまった。
生まれて初めて救急車に乗って
病院に運ばれた。
ストレッチャーで運ばれると、
天井しか見えないんだな。
自分に心電図がつけられて、
モニターを眺める。
私、昨日一日中このモニターを見ていたんですよ、
えっ?看護師さんなの?
いえ。昨日、元夫が亡くなったんです。
だからずっとこのモニターを見てた。
そうなの。
明日は告別式なのに、一体私は何やってんだろう。情けなくて息子たちに合わせる顔がない。
告別式の準備で大変なのに、
息子たちが迎えにきてくれた。
迷惑ばかりかけてしまって、
情けない気持ちでいっぱいだった。
兄弟三人がそれぞれの持ち味を生かして、
立派に父親を送り出してくれた。
父親の故郷近くの葬儀場を選んで、
姑と同じ火葬場にした。
火葬場は、桜が満開でした。
これからは桜を見るたびに思い出すのかな。
そう思って、この日を選んだのかな。
まだまだ色々大変なことが沢山残されています。
しばらくは、家族4人で粛々と片付けていくしかありません。
それでも、わたしは
三人の宝物を与えてくれたこと。
不器用な愛で私たちを守ろうとしていてくれたこと。
沢山とは言えなかったけど、一緒に過ごした楽しかった時間のこと。
そして、ありがとうという言葉がどれほど大切かってことを教えてくれたこと。
全てに感謝。感謝。感謝です。
平成という時間は、
私たち家族にとって、多くの試練の連続だった。
でもそれらの試練も苦悩も物の見事に、
平成の時代とともに過ぎ去って、
令和を迎えるのだと思います。
一区切り。
昨年登った白山の菊理姫様に
括っていただきました。
今日は平成最後の4月26日。
続いていれば、31回目の結婚記念日。
やっと本当の意味での卒婚記念日に
なった気がします。
私が肉体を離れて、
魂の存在になった後、
もし息子たちがこのブログを見つけたら、
伝えておきたいことをここに記しました。
抱えきれない愛を。
注いでも注いでも足りない愛があったということを、
そして、あなた方はその愛を受けるに相応しい息子たちです。
共に肉体を持って過ごせる時間を、
たとえ離れ離れであったとしても、
本当に大切にしていこうと思う。
魂はしっかりと繋がっているからね。
生まれてきてくれてありがとう。
私たちを親に選んでくれてありがとう。
君たちは、お母さんの誇りです。