ヴィパッサナー瞑想  10日目。
午前の修行が終わると同時に、
聖なる沈黙も解かれた。

精神力で予防し続けていたが、
喉のあたりがイガイガして軽い風邪をひいてしまった。

同室のもの同士、互いの努力を労った。

初めての賑やかなランチ。

これまで無表情な人々に笑顔が戻ると、
不思議なほどみんな若返ったように見えた。

例のおばちゃんとも挨拶をした。
「ご迷惑をおかけしました」とおっしゃるので、
「いえいえ。こちらこそ。体調はいかがですか?」と尋ねた。

「実は3日目くらいに38度以上熱があったと思うの。」
「まぁそうだったんですか?」
「でね、マネージャーさんから個室にうつりませんか?って言われたんだけど、一人で起きる自信なかったから、断ったの。」

「・・・。そうでしたか。」

マダムは、同じ理由で、人に迷惑をかけないようにと個室に移動した。

私なら、、、。

この考えを捨てなくちゃダメなんだよね。
人それぞれなんだから。
でも、そのおばちゃんは、とても行動的な人で、困った人のためにNPO作って活動する、肝っ玉母ちゃんでした。
ずっと、大きな声で楽しそうに話してた。

おかげで本当に、たくさん試されたんだなぁと感じた。

振り返れば、
自分の身体の精妙な変化を感じとることもクリアになったし、
肉体を俯瞰することも洗練されたような気がする。

具体的な修行法については、旅人から述べることは避けておくことにする。

そこで、毎晩の講話での気づきを述べておく。
少しばかりサブリミナルなところもあったし、すべてを鵜呑みにはしていないが、
終始一貫していたのは、実践なくして、悟りは得られないということだった。
解脱は、誰もしてくれないし、誰を頼っても答えは見つからない。
自らの経験からにのみ、答えはあるのだということだ。

本当にその通りだと思う。

どんなに本を読もうとも、どんなに偉大なる師を仰ごうとも、経験には優るものはないのだから。

解脱に至るまでに、八つの道がある。
いわゆる八正道である。

シーラ (道徳)の訓練
正しい言葉(正語)  
正しい行為(正業)
正しい生活(正命)

正語と正業を修行するために、旅人たちは五つの戒律を守ることを誓わされた。前述したが、あらためてあげる。
1.生き物を殺さない
2.盗みをしない
3.性的なあやまちを犯さない
4.嘘をつかない
5.酒類をとらない

聖なる沈黙の中では、この戒律を守りやすい環境がある。

正命も瞑想センターにおいては、厳格に守ることで修行を進めることができる。
経験者である、古い生徒たちはこれに加えて、正午以降の食事はとらない、新しい生徒はフルーツが許されている。
官能的な楽しみをつつしみ、飾り物を身につけない、床より高いベッドに寝ない、ことが付け加えられる。(八戒)
西遊記の猪八戒だね。猪八戒とは、つまり人が生きていく上での現実的なところが課題だったよね。ついつい色仕掛けに負けて騙されちゃうとか、食べ過ぎちゃうとか。つまりその部分を戒めるってことだね。

これらをしっかり守った上で、次の段階であるサマーディ(精神集中)の修行に入る。

正しい努力(正精進)
正しい気づき(正念)
正しい精神集中(正定)

3日間びっちりと行った、アーナパーナ呼吸法によって、呼吸を徹底的に観察し、「いまここ」に気づき、集中力を高めていく。するとトランス状態になって至福感を味わうこともあるが、目指すところではない。

シーラ、サマーディを経て、いよいよ目指すのはパンニャ知恵の修行である。

正しい考え(正思) 
正しい理解(正見)

ヴィパッサナー瞑想とは、このパンニャを訓練することによって、無意識レベルまで浄化を試みることだ。
そして全ては無常であるのだということを、体験をもって理解する。

解脱への遠い道のり。
でも、どんなものなのか?ということが、なんとなーーーーーーく見えてきた気がする。
 スタート地点に立った感じ。

身体に起きる全ての感覚。
それをただひたすらに観察する。
まるで前世で背後から刺されたような激しい痛みも、突然襲う痒みやムズムズ感も、体中に何かが這いずり回るような感覚、あるいは身体の中を氣が動き回る感覚も、
嫌悪感を抱かず、快感への渇望もせず、ただただ観察し続ける。アニッチャー無常。どんな感覚もいずれは消えていく。変化し続けている。
するとふっと身体が軽くなって、旅人の体が微細なる粒子でできているように感じてくる。
ほんの少しの微細な刺激にも、その粒子たちは即座に反応して、また旅人の体を形作る。
大海を悠然と泳ぐイワシの群れが捕食者である魚を見つけて、様々な形に変化しているような、そんな感覚。

もうその頃には、周りでどんなことが起きようと、動じることはなくなっていた。
そういえば、、、突然大雨が降って、すぐ近くに雷が落ちたよなー。
誰もきゃーと騒ぐことなく、全てを受け入れられる、そんな感覚。

ところでパンニャって、仏教用語の般若だよね?

ご縁をいただいた山口県の般若寺のことを考えていた。

般若寺というのは、用明天皇の時代、天皇の妃となるはずだったある姫の伝説が残された寺。
その姫の名は般若姫。
彼女は自分の両親の行いによって龍に祟られ、愛する夫である用明天皇と娘を残し、瀬戸内の海に身を投げるのだった。
彼女が身を投げる前に、自分の亡骸をここに埋めるようにと指差した場所に般若寺はある。
彼女の命によって、龍の祟りはおさまり、その龍は姫の守り神となる。

なぜ、般若姫という名前だったのだろう?

旅人は1300年前に想いを馳せた。

般若姫は、八正道を経験し、悟りを得たのだ。身を投げることで、永遠の命へと昇華したんじゃないのかなーー。
般若寺の龍宮西門には、仁王像がいて、阿吽つまり呼吸をしている。顕在意識と無意識をつなぐ呼吸によって、日本に訪れる龍たちは浄化され、般若へと至る。

周防大島を渡る橋の上から眺めた、地球の阿吽のリズムによって現れる壮大な渦潮も、それによってたくさんの犠牲もあり、恵があることも、全てアニッチャー無常なんだ。

全ての日程を終え、最終日は掃除、自らトイレ掃除にエントリーした。

デッキブラシでゴシゴシして、ものの見事に水で
流す快感は最高だった。ピッカピカにした。

帰りに丹波国一ノ宮の出雲大神宮へ立ち寄ろうと決めていた。
瞑想センターへ向かう電車の中で、突然呼ばれた気がしたからだ。ようやく話せた笑い仲間も誘った。
駅に向かうバスでは、沈黙の行から解き放たれた国際色豊かな参加者たちで大賑わい。
ちょっと頭がグワングワンした。笑い仲間は、完全にやられていた!笑

みんなは京都に向かっていたが、二人で途中下車して出雲大神宮へ。
最近やたらと国常立尊のいらっしゃる所へ導かれる。



光に包まれてたなー。旅人自身もこの時はかなり透明だったように感じる。

少那毘古名命のいらっしゃる笑殿社では、笑い仲間と笑い解禁!笑い奉納させていただいた。
すると、さわさわーーっと爽やかな風が吹いて木々を揺らして一緒に笑ってくださった。

奥宮で、国常立尊に心を込めて祝詞をあげた。

いつもいつもごめんなさい。
いつもいつもありがとうございます。

人間はなんと愚かな生き物なのだろう。
それでもやっぱり人間が好きだ。

中2日で台湾に行かなくてはならないため、京都駅についた旅人は荒療治!


いきなり第一旭のラーメンと餃子とビール頼んでみた。

びっくりするくらい味覚が鋭敏になっていた。

あーーーーーーもうなにも、いりません。

ありがたや。ありかたやーーー。

強制的に娑婆に戻れました。

でもよかったな。
なんかよかった。
行って良かった。

また行きたいな。