とにかく、とんでもないスタートになった。

昨年のクリスマスごろ、ある方が私の前世について教えてくれた。
その時私はケルト民族の流れをうけつぐものとして、プロヴァンスで伝統的な刺繍を伝える仕事をしていたそうだ。
ところが異教徒として捕えられ家族とともに処刑されたということだった。

その地を訪れ、大地と風を感じてきなさいといわれた。

そういわれてみると、針仕事が苦手な私が、なぜかプロヴァンスの生地に魅了され、
3人の息子たちの小学校の入学祝いに、電気スタンドの敷物をその生地で手づくりしていた。

無意識にプロヴァンスへの愛情を感じていたのかもしれない。

2月末まで失業保険がでることとなり、
もう行くなら今しかない!!と決意し、
2月21日から9日間、これまた意味ある旅の同行者となった友人とともに、
トントン拍子にフランス行きが決まった。

さて、とんでもないスタート、といったのは出発前日の出来事だ。

しばらく留守にするので、家族のために大量の食糧を仕込んでいた時のこと。

片手鍋の取っ手が緩んでいて、熱湯を右腕と右腰にかぶってしまったのだ。
動揺して、思わず近くにいた次男に「助けて~っ」と叫んでしまった。
叫ぶと冷静になり、服の上から流水で冷やし、腰は次男が冷やしたタオルを持ってきてくれたので、それをあてた。
こんなに大きな火傷は初めてで、翌日からのフランス行きに不安がよぎった。
すでに夜。救急で病院に行くことも考えたが、自分で治療することに決めた。

偶然看護師の友人が用があって家に立ち寄ってくれたので、
処置の仕方のレクチャーを受けた。

その日の夜は激痛とアイシングによる寒さで、あまり眠ることができなかったが、
その中でずっと考えていた。

「この火傷の意味はなんだろう?」

フランスの旅は実はすでに始まっていたのかもしれない。


翌朝、中部国際空港から成田へ。

成田で友人と合流。

まずはオランダ航空でアムステルダムに向かった。

飛行機の中では、気圧の影響か異常なほどの水ぶくれ。
傷口を巻いていた包帯から水泡が飛び出すほどだった。
湿潤療法で治そうと決めていたので、消毒液は使わず患部にサランラップをあてる。
寝てる間にその水泡がはじけてしまい、ブランケットを濡らしてしまうほど大きな水泡だった。

看護師の友達は念のためにステロイド剤を塗布するようにすすめてくれたので、
ラップに薬を塗って、患部を保護し、包帯を巻いていた。

オランダに入国した際、その包帯のためにボディチェックまでうけることになった。
わおーーーー。私テロリストっぽいかな??

トランジットが5時間あったので、アムステルダムの街までいくことにした。

初めはタクシーで行こうと思ったが、
友人が売店のおばちゃんに尋ねると、電車が便利だよ!と教えてくれた。

で、さっそくチケットを購入。

スキポール空港からアムステルダムセンター駅のチケット。
早速節約成功!!電車に乗れるなんてすっごくウキウキ。

この時は腕が結構腫れていたので包帯が痛々しいが、
不思議と痛みはなく、快適な電車の旅となった。

ここがアムステルダムセンター駅。
たくさんの龍が歓迎しているような雲がでていた。
つい数日前までは寒波で極寒のアムスのようだが、
この日はとっても温かく穏やかな日だった。

まずはダム広場に向かう。
ひと通り街を見まわし、アンネフランクの家へ。

ヨーロッパは自転車を使う人が多いと聞くが、
ここもやはりそのようだ。
夕方のラッシュに差し掛かっていたので、たくさんの通勤者が自転車で
アムスの街を通り向けていく。
運河もあちらこちらにあり、3本橋を渡り、ようやくアンネフランクの象を見つけた。

そのすぐそばにある、アンネの家。
ナチスの迫害の中、恐怖と戦いながら、息を潜めて生活していたアンネ。
彼女の日記に書かれていた文字からは、彼女の几帳面さがうかがえる。
そしてアンネの家族をかくまってくれている人々への感謝も忘れてはいない。

自由を奪われる。
それも不条理な理由で…

そんな中でも決して希望を失わなかったアンネ。

今回の旅のテーマがすでに始まっているかのようなアンネフランクの家だった。

さぁ、いそいでスキポール空港へ戻って、
いよいよニースだ。

つづく