お釈迦様、キリストは文字による教えを残しませんでした。
最近その理由が少しわかり始めました。
「言葉に表現した時点で違うものになってしまうから」
というのが一番しっくりくると思います。
人によって言葉が持つ意味がそれぞれ違います。
同じものをとらえているつもりでも人によって認識が違うため、勝手に自分の経験に置き換えて納得しようとします。
人づてに言葉のみで伝わるとそのズレは大きく違うものとなってしまうため、なるべく残さないようにしたのではないかと考えます。
おそらくその考えに従って「オリジナルだとより正確なことが書かれているだろう」と思い、経典の原本をありがたく扱っているのではないか。
プロセスで言うと
何かを認識する⇒言葉で表現する⇒人が言葉を認識する⇒自分の中で過去の経験から置き換える⇒疑似的に理解する
このプロセスにおいて言葉で表現する時点でもう事実とは違うのです。その後のプロセスも先ほど述べたとおりです。
正しいのは感覚という絶対的な物のみであるため、それを磨きなさいと説かれたのではないかと思います。
言葉が事実とは違うものであるにもかかわらず、それが正しいと信じ込み結果実生活において邪魔をしてしまっているからそれを瞑想によって一旦捨て去りなさいと。
だからいくら経典でありがたい正しいことが書かれていたとしても自分の感覚で体験しない限りそれは存在しないものと一緒です。
「行動」こそ最重要課題と言えそうです。