「動くD52」山北を走る | 新労社 おりおりの記

「動くD52」山北を走る

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先月、桜はまだのころ、神奈川県の西端、足柄上郡山北町を自転車で走ってきました。「動くD52蒸気機関車」を見るためです。ちょうど鉄道模型運転会とか、桜まつりとか、やっているので行ってみました。

 

 

南新宿を11時ちょうど頃発。なぜ新宿から乗らないかは、自転車連れだからです。私とともに各駅停車に乗ったのは10両編成にたった2人。代々木上原で快速急行に乗り換えます。これも昼前のせいか自転車を悠々積めるほどのにぎわい。新松田の手前、渋沢で降ります。秦野盆地から下る渓谷、さらに平野に降りる緊張感を味わいたかったからです。

 

 

駅そばの昼食を摂って自転車を組み立て走り出し、酒匂川の谷口集落、松田に向かって下ります。低い山を縫って、酒匂川の支流および小田急と国道246号が絡んで下っていきます。自転車は上りも多少ありますが、基本は下りで、スピードを出して川を渡ったり、鉄道撮影したりしているとあっという間に足柄平野に出てきます。鉄橋を行く小田急とともに、山から出てきた開放感があります。

 

(渋沢ー新松田)

 

松田から御殿場線に沿って山北へ。むかしの特急「燕」の補機は国府津で付けていましたが、山北に至るまでもやっぱり勾配があります。しかも強烈な山おろしの向かい風。春霞で富士山もうっすら見えるだけです。行く手に見えるサミットは静岡県の御殿場。山北は昭和初期まで御殿場に上るための機関車の付け替え所でした。

 

山北は標高200mくらい。サミットの御殿場は400mほど。勾配はここから、という街です。明治17年、川沿いの谷口集落だったのが、東海道本線の開通により、蒸機の補機を付ける物流の一大拠点になったのです。観光の箱根、城下町の小田原、水と大社の三島、別荘地の御殿場と比べて「鉄道のまち」として特徴のある街です。神奈川県の西の端、ギリギリ東京の通勤圏内です。

 

 

昭和9年、丹那トンネルができてローカルの御殿場線になってからも、線路が良いのでD52マンモス蒸機が走っていたのです。山北機関区は昭和18年に廃止になり、電化も昭和43年でしたが、御殿場線は現在も小田急方向からの優等列車も走る、箱根や避暑地御殿場を控え、富士山の近い、もと幹線のにおいのするちょっと変わったローカル線です。

 

(酒匂川と富士山がちょっとだけ見える)

 

高校への通学の便を図った東山北の駅を経て、山北の市街へ。新しい住宅は学校が近い東山北の方にあって、古い市街の山北と連なり、細長い宿場町のような感じです。かつて東海道線の急行停車駅でしたが、ローカル線になってそれ相応になり、大きな木造駅舎がかつての栄華を物語っています。

 

(山北駅)

 

まず行ってみたのはすぐそこの鉄道資料館。1階が売店や休憩所になっていて、2階が資料館です。今日は運転会で、大きなスペースがあって、小田原の高校生の団体が模型を走らせています。他に企業が作ったレイアウト、さらに資料館が作ったものもあって、NゲージのD51蒸機などが走っています。

 

(D52蒸気機関車)

 

印象に残ったのは、やっぱり蒸機についての画像記録が多いということです。御殿場線は1934年まで東海道本線で、蒸機列車の当時最速の超特急燕や富士、桜が行きかい、山北で補機を付けたり解いたりしていたのです。当時は煙に包まれた鉄道のまちだったでしょうね。

 

その後の丹那トンネルが開通して、東海道線が熱海経由になり、ローカル線化で「御殿場線」になってもD52マンモス蒸機が客車貨物を牽いていました。D52はD51(デゴイチ)よりも強力な貨物用機関車が軍需輸送に欲しいと、昭和18年に“決戦”機関車として造られました。日本機関車史上最大のボイラーで、蒸気機関車の王者、特急機C62はこの機関車の戦後の改造です。

 

電化後も最新の小田急の特急が投入されてきたところですが、やっぱりもとの東海道線の面影を象徴し、御殿場線でも長く活躍したD52に愛着があるのです。

 

 

山北町はじめ御殿場線沿線のまちはいわば今でいう、新幹線が作られて寂れた在来線の街の“はしり”だったわけで、人口は減っていますが、それほど大きく減っているわけでもないし、人心も荒れていない感じです。

 

ただ資料館の案内の方は年配の方なので「箱根を越えるマレー式(明治の機関車)が…」などと話すと、そこまではご存じないといいます。小田急やJRのOBの方も電車運転の方で、さすがに蒸機運転まではという方の現在です。御殿場線電化は私の生まれ年。私も年を取ったのです。

 

(模型の山北駅前)

 

レイアウトは私の個人的な好み「昭和30~50年代」の感じ。心なしか現在の山北駅前と変わらないような気がします。近代的なようで古くさくもない“モダン”な洋館のような感じが好きなのです。そこに“決戦機関車”D52が入ってくれば、昭和ブームの今、機関車のまち、山北のいいパーソナリティになります。

 

資料館を堪能して出てくれば14時過ぎ。今やっている桜まつりではD52を動かすのは15:20から。片道徒歩40分かかる洒水の滝を見てこようと思いました。平坦線なようで自転車で行けば往復1時間かかるまいと行ってみました。山北市街から小さい谷川をさかのぼって自転車でアプローチし、途中から徒歩アタックです。

 

(洒水の滝)

 

すそ野の広い富士山周辺には、雨が広範囲に降って硬い火山岩が多いので、岩が鋭く削れた自然の彫刻でこういう素晴らしい滝や池ができるのです。ただ切り立った地形は落石が多いらしく正面アプローチはムリで、新しい見物道ができていました。大水が出た場合の管理もよいらしく、下流は水がスムースに流れ、水力発電所も景気よさそうです。水の管理は二宮尊徳(江戸時代小田原の農学者)以来の歴史ある富士山周囲のこと、江戸時代から水トンネル(深良用水)も掘られたような土地柄です。

 

 

 

ハイキングのヒトたちを追い抜いて、15:15ごろ山北駅前に戻ってきました。山北駅の機関区だった広場では地元アイドルの踊りに、おみこしワッショイが終わり、いよいよD52の12m走行です。ポーッ!ボッボッ!という汽笛とともにライトを光らせたD52がそろそろ動きます。12m先車止めの前で停まって、汽笛をまた鳴らし今度はバックして囲いの中に戻ります。

 

そんなことを4度繰り返し、その都度拍子を変えて汽笛を鳴らして動いています。現役の蒸機である、ガリン!ボボボッ!ボッ!ボッ!という音はせず、シュッシュと蒸気も吐きませんが、8動輪が確かにレールを踏みしめる質感があります。

 

(ケムリが出ている)

 

煙突からはホンモノの石炭を炊いたものでない、擬煙としてのケムリが多少出ています(ホントに炊いたら大変)蒸気でなく炭水車に積んだ圧搾空気でピストンを動かしています。これでも地元の方々は大変な苦労があったでしょう。ピストンが8つの大動輪を回すだけでも、作って80年経つ鋼鉄の塊で、そう簡単にはいきません。

 

本当によく動かすところまで持って行ったものです。私のような単なる鉄っちゃんでない、鉄道を本当に愛する人が多い「鉄道のまち」としての矜持と情熱が感じられます。蒸気機関士も廃止から半世紀、確保の難しい時代です。150年以上の歴史の重みもあり、蒸気機関車の維持・保存も近代文化遺産ながら、歌舞伎や匠と同じ伝統です。ぜひ後世に残してほしい“技術”です。

 

(令和6年の山北駅前)

 

D52を見てから、今度は小田急新松田駅から輪行しようと、246号でない道を行こうとヒトに尋ねて酒匂川の河畔を行きます。富士山ろくから流れるとは思えないような悠々滔々たる流れですが、二宮尊徳も悩んだ昔からのあばれ川です。上流ではキャンプが流され、大勢の死者を出したような事故もありました。ただ今日は3月末日で春風駘蕩、教えられたとおりに行って快適に走り、新松田駅にたどり着きました。

 

(酒匂川)

 

途中酒屋さんで2個150円の大きなはっさくを購入。そこここの小売店でひとふくろ100円などで売っているのです。目立ちませんが、この辺りは🍊の産地でもあります。この店のオヤジさんも道を教えてくれた老紳士も、懇切丁寧に教えてくれて、まあ親切でヒトが良い!

 

晴れが多い気候と豊かな風土で東海地方(松田町も山北町も神奈川県)は穏やかといいますが、その通りの人情でした。産業が衰退するとその地域の人心は荒れますが、そんな境地はすっかり卒業した、という風情のさわやかな方々でした。

 

対称的に鉄道資料館の方々は「一生懸命な蒸機機関士」のような方が多かったですね。サービス業ほどではないけれど、自分の専門分野については一生懸命語ってくれる、蒸機のヒトではないけれども、50歳で定年して52,3歳で過労で亡くなっていた蒸機機関士、時代の語りべの、本で読んだような伝統を現在のウテシ(運転士)は持っているものかと思いました。

 

 

新松田の駅では自転車を折りたたむ同業と話します。私は平たんな秦野市渋沢⇒山北⇒洒水の滝⇒新松田と、30数kmほど走っただけですが、彼は高性能自転車で、箱根をほぼ一周したようです。この辺り、富士箱根の面白いアップダウンコースの拠点でもあるんですね~。都内から小田急一本でこんな風光明媚な走り甲斐のある場所まで来れる、というところが人気のある理由です。

 

新宿行きの快速急行は休日帰りでけっこう混んでましたが、不思議といいところをのんびり走ったせいか、1時間半立ちっぱなしで脚は疲れませんでした。帰ったのは夜7時ごろ。さっそく持ち帰ったはっさくを食べました(^O^)

 

<「動くD52」山北を走る:完>