良寛サイクリング(下)五合庵と分水 | 新労社 おりおりの記

良寛サイクリング(下)五合庵と分水

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(中)出雲崎の街の続きです。

 

良寛修行の幻の小屋があった海岸を北上するうち、魚の街寺泊です。鮮魚に釣具屋が軒を連ねます。着いたのは10時ころ。まだ朝食はなく、昨晩はパンと牛乳でした。魚屋さんはたくさんあっても飲食店はなく、コンビニでスタミナ弁当とサラダを買います。海岸は開発されていて場所がなく、素寒貧な広い駐車場の片隅で朝食です。立派な海港はありますが、弁当する場所がないのです。基本車で来て買って帰る場所で、食べるところではないのです。

 

 

街を外れると、間もなく大河津分水。新潟平野が本当に実り豊かな、米どころになったのは、日本一の信濃川の水を逃がすこの水路が大正期にできてからです。良寛も嘆いた水害の多い土地でしたが、令和の今でも交通路の円滑化や補強で工事をやっています。分水を渡る野積橋などは2車線で自転車の行く余地がほとんどありません。水優先で交通は最低限だったのでしょう。その便利化を100年経ってもやっているのです。

 

 

分水をさかのぼって途中で山側に折れます。良寛が40代以降20年を過ごした国上山です。山寺だけあって大変険しい山で、途中の乙子神社では、舗装路外のもとの参道には「スズメバチに注意」という文句もあります。曹洞宗の本山永平寺が山中にありますが、ここは空海の真言宗。空海も金剛峯寺に眠っていますから、修行の場としては禅も真言宗も似通っています。

 

 

ときどき休みながら急こう配をつづれ折を登り、クルマもここまでという駐車場に自転車を止めます。国上寺は徒歩アタックです。山の平坦な台ごとにいろいろと「仕掛け」を作って、テーマパークのように信仰を喚起するしくみです。お地蔵さんの大勢いる築山やら、酒呑童子の井戸やら。もっとも普通のテーマパークとの違いは、やっぱり歴史的な価値から出るオーラ、パワースポット的な霊気があるのです。山や木陰の涼しさとも相まってこういうところではバテません。

 

(国上寺)

 

あちこちに新しく、また歴史的な仏像や、謙信や義経、酒呑童子、曽我兄弟に至るまでの伝説の説明書きを縫っていきます。山道を上ったり下りたりする城で言うと本丸、二の丸と来て、三の丸の一画に良寛が住んだ五合庵はあります。

 

(良寛は優遇されたが寺の“主人公”ではない)

 

8畳ほどの広間だけの庵。良寛の隠居所ではなく、もとこの国上寺を中興した高僧の住まいだったようで、顕彰碑が隣にあります。高僧が亡くなって、空いているなら、とちょっと借りて20年住んだのです。言ってみれば寺が運営するアパートだったでしょう。

 

別に良寛は20年ここに座っていたのではありません。他の僧侶が良寛の長い旅行中に入ったこともあります。山中ですがそれほど陰鬱な感じはなく、険しい山に米などを上げるだけでも大変だったでしょう。良寛はインフラよりも、この辺りのオーラに自分に合ったものを感じたのかも知れません。ソコソコの秘境で、ソコソコのヒトの間、というバランス感覚です。

 

(越後のスター良寛)

 

しかし・・・春夏秋はいいけれど、冬は寒いでしょう。背後から染み出る雨水でのどを潤したといいますが、急斜面が崩れたりもしなかったのでしょうか。良寛は59歳でここを離れて、さっき通ったもう少し下の神社の離れに移り、老齢を見かねた地元の人々によって70歳で麓に戻り、分水町の素封家の広大な屋敷内の庵を終の棲家としたのです。そこで弟子も取りましたし、書画も円熟しました。

 

この40歳前後以降の国上山での壮年時代は、良寛の書画作品や伝説逸話の黄金時代です。縁の下から竹が生えて伸び、良寛はヒサシを外し屋根を外し「もっとドンドン伸びなさい」といったというのはここでの伝説です。しかし貞心尼はじめヒトとの円熟味は、麓に降りてからのようです。

 

(お決まりのシルエット)

 

五合庵からは自転車を置いたところに戻ります。良寛時代はなかった大吊橋を渡って、あっという間に駐車場に帰り、苦心して登った道をあっという間に下って麓へ。まだ11時ごろで、乗用車で家族連れがけっこう来ます。

 

再び大河津分水をさかのぼって、途中で折れて道の駅で昼食を摂ります。定食で食券を買い、お昼前で混む前に掻き込みました。後は水なども補給し、炎天下の海の真っただ中のような田んぼの中を、スマホで位置を確かめながらアミダくじのように走り、もとの分水町の良寛史料館を訪ねます。

 

 

出雲崎にも良寛記念館はありましたが、朝早すぎていかず、ここの資料館は大河津分水と半々の史料館でした。良寛の友達には、かくれんぼを楽しんだ名もなき少年少女から、長岡藩主の牧野家、またその飄然とした雰囲気を絵に描き、彫刻に刻んだ芸術家も多いコト!良寛の銅像はこの地域だけでも10体以上あるのではないでしょうか?

 

(分水付近)

 

葬式には仏教儒教神道を問わず、また身分を問わず1,000人以上のヒトが押し寄せたといいますが、そのたぐいまれな人徳が感じられるのです。そのモトになったのは学識、歌詠みの才能ですが、本質はココロをあらわす書画だったでしょう。存命中はそれほど価値がなかったもののようでしたが、良寛の「伝説」によって、手紙の一編でも価値があるようになったのです。

 

徳のもとになる幼少時から培った高い学識と、温容な性格。それは孤独から来るもののように見ましたが、伝説の良寛は子どもと遊び、難しい講釈をせず分かりやすく仏法を説く社交性あふれるヒトでした。その「能ある鷹は爪を隠す」的なものが、郷土人の信頼を勝ち取ったのかと思います。

 

 

(吉田付近)

 

時に13時前。史料館のお姉さまとお話。コロナは出雲崎ではごく少なく、小学校のクラスターぐらいだそうですが、ここ分水(燕市)では産業都市でヒトの行き来が多いだけに結構感染者が出て、警戒しているとのことでした。小さい案内所でも顔認証の体温計があって、5回ぐらい使いました。

 

電車の時間を聞くと、この辺は夕方までないとのこと。旧吉田町まで行けば、JR越後線、新潟寄りは電車があります。旧分水町地蔵堂から越後線・弥彦線の要衝、吉田駅まで13km走ることになりました。「川を渡って左へズーッと行けば吉田駅」というのは大当たり。私の好みのコースで川に沿い、田んぼの中を走り、お地蔵さんを拝みながら行きました。ここも昔からの街道のような適度な起伏と曲がり具合でした。

 

(酒呑童子は近畿のヒトだが?!)

 

方向感覚というのは地元の“土地カン”がないと分からないものです。方向さえ示してもらえば曲線がなければたどり着くことができる!道の半ばに良寛の他に酒呑童子伝説もあったりします。京都に行ったこともある良寛が広めたのではという妄念も出ようというモノです。吉田駅に着いたのは14時ちょっと過ぎ。ここで自転車をたたんでサイクリングを終わり、東京に帰ることにしました。

 

(吉田駅)

 

14:54、吉田発。新幹線は燕三条があるのに、新潟まで行ったのは、新幹線の始発に自転車を無事乗せるためと、30年前住んでいたところを垣間見たかったからです。6両編成の電車は、岩室、内野、新潟大学前、寺尾、昔の寮の最寄り関屋、白山とだんだんヒトが多くなり、信濃川を渡って新潟へ。

 

あくせく走った田んぼを、冷房の効いた車内で新幹線で一瞬で通り抜け、史料館で買った良寛の冊子を読みながら三国峠を越えました。「各駅停車」の新幹線で、大宮までにけっこう人が乗ってきていて、立席もあり、恐縮して自転車を降ろします。夕暮れの首都圏に自転車を担いで大宮⇒武蔵浦和⇒西国分寺と帰ってきました。自転車をまた組み立てて自宅は20時過ぎでした。

 

 

良寛の足跡をたどったヒトは良寛没後200年、大勢いますが、良寛の修行した近くで野宿したというのは、少ないのではないでしょうか。さらにその後、五合庵を訪ね、良寛の生来的なバックボーンとその人生の成果の生み出しどころを訪ね得たというのは、我ながら1泊2日にしては効率はイイ選択をしたなと思わせる旅でした。

 

(国上寺)

 

良寛は葬儀の時に、宗派身分を問わず人が来たというように、人格芸術とともに寛容な多様性を受け入れられるヒトだったのです。典型的、理想的な日本人に挙げられるのも分かります。しかし江戸時代といえどやっぱり“変人”で、人間良寛の本質はけっこう孤独だったのではないかと思います。

 

しかしそれを幸福に昇華するすべを知っていたのではないか?それを知るために、社会と個人の折り合いの一致点を探るために、江戸以来多くの文士が彼の足跡を追ったのかと思います。正岡子規も良寛を絶賛した1人でした。

 

 

子規と共通するのは、俳句よりそういう個人と社会との折り合いを探る「人間・正岡子規」が脚光を浴びていることです。子規も良寛も厳しい修行(闘病も含む)を長年したヒトですが、個人のエゴと社会のエゴ、その両方の折り合いを最もいいところで最適化して評判が良い、それが人徳に昇華したものかと思います。

 

(出雲崎)

 

良寛のゆかりの街は出雲崎や国上山の他、彼の父の故郷、与板や、10数年若いころに修行した岡山の水島などもありますが、旅行ルートは良寛初心者としては良かったと思います。2日間で100km弱走りました。今後彼の人徳や、時を越えた飄々とした温かみを思い出したらまた行くことでしょう。

 

<良寛サイクリング:完>