ナチ党残忍看守列伝 | 新労社 おりおりの記

ナチ党残忍看守列伝

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(アウシュビッツとナチス戦犯裁判)

 

ナチス・ドイツは、イギリス以外のヨーロッパじゅうに強制収容所(閉じ込めるための収容所)・絶滅収容所(殺すための収容所)を建てて、政治的な異分子や反対者、ユダヤ人や他の民族を迫害したことで有名です。

 

そこには大勢の看守が必要で、中にはナチ党らしく強烈なヒトもいて、ドイツ敗戦後、裁判にかけられたり、逃げおおせたりしています。そんな収容所の看守をまとめてみました。警察出身で、政治に興味を持ち、乱暴者で警官を辞職したがナチス党に拾われた、というような経歴のヒトが多いです。ナチス・ドイツは警察国家。また残忍であればあるほど、優遇されたのです。

 

収容所の親玉で、虐殺の現場を見て気分が悪くなった親衛隊長官ヒムラ―や、その命令を受け、「書類で殺した」アイヒマンなどとは違い、収容者に直に触れた「実務家」です。単なる刑務所の看守ではありません。ナチスの思想を体現して情け容赦なく「民族浄化」の名の下、罪なくしてもがき苦しむ人を“直にやった”人々です。

 

罪があるわけでもないヒトをいじめたり、迫害したりするのは、並大抵の精神では務まりません。人間誰にでもある「マイナーな残忍さ」の“能力”が必要です。もともとあった人もいるし、あとで“育てた”ヒトもいます。

 

☠ テオドール・アイケ

 

強制収容所の「確立者」。もともとは警察官。反社会的な政治活動や、乱暴を働いて辞めさせられた後、もと警察官を求めていたナチス親衛隊に就職し、強制収容所のシステムを造り上げました。彼の率いる看守チームは後に軍隊化し「どくろ部隊」と言われ、ならず者が多く、戦争には強かったのです。

 

彼の言ったスローガンは「寛容は弱さの印」。とにかくマッチョイズム、オラオラ系のすぐキレるような乱暴者が強制収容所の拠り所をくみ上げたのです。アイケは軍隊では「パパ」と慕われ、大戦中期にソ連との戦闘中戦死したのですが、もともと残忍ではなかった彼の弟子たちは教えられた通り、残忍極まるナチス収容所の看守になり、多くの虐殺に関与しました。

 

☠ ルドルフ・ヘース

 

アウシュビッツ収容所の初代所長。若いころにはヒトラーの官房長と一緒に人殺しもしたことがあります。アイケの教育を受け、アウシュビッツ収容所を荒野の中に造り上げ、優秀な運営者となりました。後任の収容所長が手ぬるいと、再任されたこともあります。10万人を収容し、罪のないヒトを毎日1万3千人殺しました。

 

もともとは1人で居ることの好きな性格でしたが、収容所の最高権力者になって近寄りがたい、コワい人間性を造り上げました。ただ収容者の美人にうつつを抜かすようなところもあり、戦後の裁判では記録を素直に提出し、アウシュビッツの細部に至るまで陳述しました。絞首刑の最後には、自分は悪人ではなく、歯車の1つに過ぎなかった、と述懐しました。

 

☠ ヨゼフ・クラマー

 

ヘース所長の副官、アウシュビッツのガス室管理官。ドイツの敗戦時はアンネの日記のアンネ・フランクが16歳で亡くなったベルゲン・ベルゼン強制収容所長でした。「収容所から出るにはあの煙突(ガス室の煙突)を通っていくしかない」という名言は有名。大戦末期初めて連合軍と接触し、収容所を明け渡すことに同意した収容所長でした。戦後は所長だったベルゼンで開かれた裁判で死刑になりました。

 

最後はもう収容者を殺すだけの資源もシステムもなくなり、不衛生な環境でアンネ始め収容者がチフスで倒れるのを、黙ってみているしかない状態でした。このベルゲン・ベルゼンはガス室はありませんでしたが、やせこけた生存者や遺体がゴロゴロ、という状態で、解放した連合軍の激戦を経た兵士ですら目を背ける光景でした。

 

☠ ヨゼフ・メンゲレ

 

アウシュビッツで「お前は右!(ガス室行き)お前は左(強制労働のヒト)」と、“分別”する役割の医師。人体実験対象である囚人をモルモットと呼び、加圧室に置く(心臓その他臓器が“破裂”する)有害物質や病原菌を注射する、血液を大量に抜く、熱湯に入れて麻酔なしで手術をする、様々な薬剤をテストする、死に至るまで凍らせる、生きたまま解剖するなど、囚人達に致命的外傷を与える実験を繰り返しました。 

 

サディスティックな性情の持ち主だったようです。彼の思想はナチスの一般的な考えとは違っていて「世界で最も優れた民族はドイツ人とユダヤ人であり、どちらかが世界を支配する。しかしユダヤ人が支配することを私は望まない」というものでした。戦後はアルゼンチンに逃げ、死ぬまでモサドの追跡を逃げ切りました。

 

☠ カール・ゲープハルト

 

ヒトラ―親衛隊トップ、ヒムラ―の主治医。何十人もの人間を“切り刻み”その傷に細菌の培養液を注入するような実験を行い、低圧室や低温実験もあり、多くの人が内臓破裂など苦悶のうちに死にました。 75人殺した人体実験で、鎮痛剤が感染症に無効力であることを立証し、ヒトラーから勲章を授与されました。戦後、人体実験をした医師を裁いた「医師裁判」で絞首刑になりました。

 

彼のみならずナチス・ドイツの医師は戦後集団裁判が行われたぐらい、数多く残虐行為に加担しました。裁判前に死にましたがヒトラーの侍医モレルなど、独裁者にストリキニーネとぺラドンナ(興奮剤と鎮静剤)を混ぜて処方していたなどという噂もあるぐらいで、やっぱり一風変わったヒトが多かったのです。

 

☠ ジクムント・ラッシャー

 

空軍の軍医でもっとも“知られた直接の悪意ある”虐殺者。戦闘機などに乗った場合の高空の低気圧に人間がどこまで耐えられるかを調べる実験を行い、低圧室に入れられた囚人は臓器が破裂してほとんど死亡し、生き残っても後遺症が残りました。冷たい海面に落ちたパイロットを救出できるかどうかを調べる実験も行い、囚人を凍死させた後、蘇生が可能かどうかという人体実験も行われました。

 

その蛮行以外で、他国の子どもを強引に誘拐して自分の子どもにした罪で、残虐性が評価されたナチスの体制下ですら、夫妻ともどもドイツの敗戦2週間ほど前に処刑されました。連合軍への「いけにえ」だったという説もあります。

 

☠ グスタフ・ワグナー

 

ソビポール絶滅収容所の「名物男」。容姿はナチス好みのアーリア系のイケメンでしたが、赤ん坊や女性を平気で“ひねり殺し”、気に入らないとみると法も何もなく収容者を冷酷に銃殺しました。階級は曹長(下士官)でしたが、その権威は王侯貴族以上で、上司の所長や他の看守からも野獣と恐れられ、他の収容所ではなかった、計画的な最大規模の集団脱走事件が彼の留守中起こったぐらいでした。

 

戦後はブラジルに逃げ、シラを切り通しましたが、当時親兄弟を殺された収容者と会い、犯罪を暴露されました。正体が明るみに出たために、南米ドイツ人社会からも疎まれ、その後自殺したとも、病死したともいわれています。

 

☠ ハンス・シュタルク

 

「小学生殺し」(1人2人ではない)で有名。もともとはどこにでもいる目立たなさそうな若者が、良心の逆転と呼ばれるように残酷な男になった好例と戦後分析されました。自分自身を倒錯させ、全体主義的な強力なメンタルに変えられ、その結果、彼の道徳的良心はヒトラーの考え方に置き換えられたのです。

 

その行動はガス室へ送られる前の女性たちを壁の前に並ばせ、1人また1人と撃っては、その死骸に向かって立て!と狂ったように叫ぶという、裁判で証言をされるまでになりました。あまりにも惨い出来事を思い出さなければならないために、彼の裁判で言葉を失ってうずくまる証言者もいたほどでした。

 

☠ ヴィルヘルム・ボーゲル

 

元警官で、ムチ使い。「ボーゲルのブランコ」と言われる独特の折檻方法で収容者をいじめ抜いた看守。高い横棒にユダヤ囚の膝を折って逆さに吊るす拷問方法を考え出し、アウシュヴィッツの野獣と呼ばれました。シュタルクと共に戦後を逃げおおせ、ドイツ国内にいましたが、アイヒマンの逮捕とともに再び燃え上がったナチ糾弾で、アウシュビッツで裁判にかけられ、終身刑でした。

 

☠ イルマ・グレーゼ

 

ナチス戦犯では最年少の死刑囚。19歳でアウシュビッツの看守になり、たちまち管理職に出世しました。無垢な美しい少女の外見で、殴る蹴るはもちろん、サディスティックな拷問を好み恐れられました。「石のココロを持つ女」として犬をけしかけて咬ませるようなこともしたのです。美貌とその残忍さで処刑後は多くの映画のモデルになりました。

 

☠ イルゼ・コッホ

 

夫は強制収容所の所長。その権力をかさに着て虐待行為を行いました。死んだ収容者の皮膚でブックカバーやランプシェードを作ったという伝説があります。夫は残忍な戦時中のナチスですら持て余して、終戦を待たず処刑せざるを得なかったほどの人物でしたが、彼女は助かりました。アメリカ軍は軽い刑罰で済ましましたが、当時の西ドイツ当局は終身刑を宣告し、獄中で自殺しました。

 

 

ナチスでは、より力のあるものは支配すべきという哲学のもと、アイケのスローガン「寛容は弱さの印」のように、残忍さが「強者」のバロメーターで、今風に言うとマッチョイズムのイデオロギーが支配していました。大戦下でもほぼ関係なしに「弱者」の迫害はより多く行われました。

 

ただその強者は、福祉的な優しさや有能さではなく、自分勝手に造り上げた「弱者」から、食べ物も自由も取り上げて衰弱させるものに対する迫害をどれだけしたかで測られるものでした。「強者」=残忍者だったのです。そんな似非強者は今日も全く滅びたとは言えないのではないでしょうか?令和の日本でも原因はイデオロギーでないとはいえ、高齢者、子どもなど弱者への虐待は後を絶ちません。

 

元警官が収容所の看守を多く勤めていました。しかしそれ以外にもエリート医師やフツーの兵士勤め人、主婦や年若い美少女に至るまで、フツーのヒトでも残忍な習慣に染められていったことが分かるのです。

 

大戦という異常時でしたが、逆に「そういうヒト」でないと、俗に言う「ろくでなし」な面がないと務まらない異常な社会だったのです。それで結局は個人も「何かと理屈を付けて」虐殺を正当化する小難しい理由を付けてしまうのですね。