改革者にして保守者―調所笑左衛門 | 新労社 おりおりの記

改革者にして保守者―調所笑左衛門

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調所笑左衛門

 

幕末薩摩藩の有能な財務官僚です。江戸末期の薩摩藩の「倒幕パワー」の源になった財政を“改革”によって作り、しかし“改革者”島津斉彬によって排斥され、最期は自殺?のような形で急死しました。平和な時代が崩れて社会が変革する場合、こういう有能な改革者が、言ってみれば「老害」のような形で排斥される現象は、合理的な判断と、それを発揮させる組織の利害関係の調整のむつかしさを感じさせます。

 

「この調所を生かすも殺すも好きなようにされよ」「借金は250年譜で返す」とは調所の名言です。身分制度の江戸時代、京大坂の富商がつぶれたのが大名貸しによるものだとは有名なハナシですが、商売人にもカタい貸し先として、またブランドづくりとして大名は貸しがいがあったのです。その心理を逆についたのですね。ただウソはつかず、薩摩藩は版籍奉還(藩自体なくなった)まで年々250年ローンを払い続けています。

 

しかし豪商も利を追い求めることについてはお武家様以上のプロです。実際に薩摩藩に年貢を徴収する72万石の領土以外の利がないと、ちょっと貸さないでしょうね。そこで笑左衛門が担保にしたのは、琉球・中国の「密貿易」と、南西諸島の砂糖生産の「専売制」でした。当時おおっぴらに貿易をやっていいのは長崎だけ。そこを通すことで形だけは合法な貿易にし、法外なチャージを見逃してもらっていたのです。

 

当時は貿易は幕府の独占が建前。笑左エ門のあるじ、島津家の内紛で、かの名君、島津斉彬の敵役に立った笑左衛門は、斉彬の改革の同志、幕府のトップ、老中阿部正弘に貿易の矛盾を突かれ、自殺に追い込まれました。官僚というと冷徹なイメージがありますが、当時のこと、度胸も知恵もあったヒトだったのです。生まれついてのお偉方やその子孫でなく、殿様の話し相手「茶坊主」で、奥さんも町人の出でした。

 

ただ当時の名君、島津重豪がヒトを見る目があったのですね。お家の非常時、やらせてみれば結構やるじゃないかと。重豪は司馬遼太郎が「江戸中期に生まれたのが不幸だった」というほどの“英雄”だったので、ヒトを見る目があり、使い方を心得ていたのです。ただ笑左衛門の悲劇は経済改革者≠政治改革者だったところです。改革にはカネが必要。そのカネを捻出できるよう改革したのに、カネのかかる改革をされてはかなわない、というわけです。その立場が彼を保守者にし、政治の方の改革者の目の敵にされたわけです。

 

彼を間接的に殺したともいえる斉彬は、言うまでもなく西郷隆盛らを取り立て、結果として倒幕に向けた藩の近代化を進めました。しかし子女を次々なくし、自らも京都に乗り込もうとしている中で不慮の死を遂げました。改革というのは3方よし、8方美人では成り立たず、違う立場のヒトの思惑が絡む微妙な政治権力のアヤが作用して時代を思わぬ方向に導くものだと感じます。