歴史書に感動を! | 新労社 おりおりの記

歴史書に感動を!

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歴史書になぜ感動するのか? 歴史というのはなぜ楽しく、面白いのか?古代史から現代史、さらに日本史から欧米史、アフリカ史に至るまで、もうこの世にいないヒトのコトを知ってどうするのか?むかしむかしのことを知ったところで今の状況に役立たないじゃないか?という考えはあります。 

 

ズバリ言いますと、歴史の面白さではなく「歴史書」の面白さなのです。歴史というのは、現実に目にする場合、ヒトがこうした、文化がどうだった、災害がどうだったという事実の羅列ではありません。目にしているのはその事実が、実はこうこうという意図で、こういう結果で、こういう影響があって今につながっているという「考証」のことなのです。

 

事実を羅列するなら、歴史ではなく単なる過去の記録ですよね。私でも書けます(笑) 歴史が面白くない、というヒトは、たいてい事実の羅列を、受験対策に単に暗記するという作業に疲れた方が多いのです。これはもっともでしょう。 

 

例えば「源頼朝が鎌倉幕府を開いた」ということですと、さまざまな考証があります。 

 

・なぜそれが重要なのか?朝廷があるのだからいいじゃない?

 ・なぜ頼朝?平家じゃダメなの?その後北条氏が実権持ったのはなぜ?

 ・そもそも「いい国造ろう頼朝さん」で1192年にできたの?・・・ 

 

それらのことについて、むかしから偉い先生がさまざまな資料を参照し研究し、「それは違うぞ」「いや正しい」などと自分の考えを開陳しているから面白いのです。歴史に感動するのではなく、その歴史をどうこねくり回しているか?そのこねくり回し方が納得いくものですと、世の中の学問として定着するのです。 むろん、むかしの出来事はノンフィクションです。事実なのですが、なぜそれをやったのか?という「考証」が面白いのです。 

 

上の例ですと頼朝が勝手に鎌倉で政府を作ったのか?武士という「職種」でまとまりたかったからなのか?または、平家は貿易振興で正しかったのに、頼朝は引きこもってしまった、進歩の後退だ、または、政府ができたのはその平家が滅んでからだ、政治のための役所を設置したから1185年なのだ、という論議です。 

 

小説と違うところは、新発見の史書や記録などに基づく事実に近いところだからです。それをいかに事実に近い、納得できる感じで書くか?自分の論を展開するか?というところに、私のようなアマチュア歴史家と、プロの違いがあります。感動=納得ですね。

 

今やっている大河ドラマの「麒麟が来る」の明智光秀も、若いころの事績はよくわからないのですが、こういうことくらいはあったろう、という納得できる考証があるから面白いのです。 考証が社会的評価を得ると「司馬史観」「キリスト史観」「唯物史観」などと、さらに分析されるのです。

 

私の今のトレンドは実際に歴史を作ったヒトの書いた書です。インドのネール「父が子に語る世界史」、イギリスのチャーチルの「第2次世界大戦史」、ナチスの軍需相、アルベルト・シュペーアの「ナチス狂気の内幕」、田中角栄の「日本列島改造論」等。 ボリューミイで、外国人のものは日本語訳でも難しいものですが、がんばって読んでいます。

 

政治家の宣伝や思惑で、自分に都合よく書かれ、政敵を貶めた部分もあります、また荒唐無稽な妄想もありますが、それはそれで考証の1つですから、現実の歴史の流れと照らし合わせてそれなりに察することができる場合もあり、面白いのです。 

 

または歴史を作っていなくても、作った人物の謦咳に接したヒトの本ですね。実際晩年のシュバイツァーにアフリカで会った野村實の「人間シュバイツェル」や、田中角栄の秘書の書いた「オヤジとわたし」などです。 まあだから、歴史の好きなヒトの本棚はすぐに一杯になりますね。一気に読んで、次に拾い読みをして、解説やあとがきも読んでみる、というように何回も読まないとそのヒトのホントの意図=考証は自分なりに理解できないほど、奥が深いからです。

 

田中角栄やチャーチルなど亡くなって何十年経ってもブームが起きるのは、良かった悪かったという考証が多岐にわたるからです。 歴史は過去のことですが、現在の人間社会にも応用できます。歴史というのはたいてい人間のことで、ITや機械や制度は進歩しますが、「人間性」は原始時代以来それほど進歩しないからです。

 

進歩が必ずしもイイことでない、というのは、歴史を学べば分かることです。社会の横軸としての諸現象の現在の現実と、横軸としての歴史の考証、これが分かれば、社会で恐れるものはないかと思います。その恐るべきことはない!という時代を大観できる妄想と、ちっぽけな現在にヤッサモッサしている自分の対比が面白くて、歴史を読むのかもしれません。