プロイセン王国の“家康・秀忠・家光” | 新労社 おりおりの記

プロイセン王国の“家康・秀忠・家光”

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江戸幕府などの組織は、3代で固まると言います。家康・秀忠・家光の他、皇室は天智天皇・天武天皇・持統天皇、室町幕府が、尊氏・義詮・義満、鎌倉幕府の時政・義時・泰時もそうでしょう。こういうことは外国でもあります。

 

プロイセン王国とは、ドイツの前身です。ドイツは19世紀まで、江戸時代の日本のような数十か国という封建国家の集まりが何百年と続きました。この地域を、プロイセン王国がちょうど日本の明治維新のころ、王国の宰相ビスマルクが中心になってまとめたのが、今のドイツ国家です。帝国→ワイマール共和国→ナチス→民主制という変遷はありましたが、以来ドイツは1つの国家として続いています。

 

江戸時代の日本でいえば「雄藩」だったわけですが、最初は「神聖ローマ帝国」という何だかあやふやな連合のもと、ポーランドや、ロシアを上回る大国、スウェーデンなどの支配も入っていた一地域です。その中で頭角を現し、外国を追い払ったのが、フリードリヒ・ヴィルヘルムという英雄でした。ただ彼はプロイセン王にはなれませんでした。その子どもからプロイセンの歴史は始まります。

 

フリードリヒ1世(17世紀)

 

 

偉大なオヤジさんの遺産で初めてのプロイセン王になりました。ただ絵に描いたような2世で、文化的なものに力を注ぎました。大学を作り、哲学者ライプニッツを迎えています。ルイ14世のフランスをまねて虚栄心の強い、身の丈以上のゼイタクを行い、佞臣が多かったのですが、晩年罷免し、国が傾かずに済みました。

 

フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(18世紀前半)

 

 

「兵隊王」と呼ばれました。上画像は怠けた役人をたたき出す王です。なんだか痛快ですね。「我が国はまだまだ小国でフランスの真似などしておれぬ」と、割り振りの徴兵制を施行し、軍隊を増強し、経済的にもしまり屋を通しました。

 

軍隊の調練は過酷で、そのおかげでプロイセン軍は豪雨の中ですら大砲を正確に操作して撃てるほどに熟達しました。また、徴税や生産性にも厳しく、民間を絞る一方、官吏にも厳しい効率性を求めました。しかし軍隊を増強する割に戦争はしなかったので、貯金は増え、プロイセンは豊かな国になりました。

 

フリードリヒ2世(18世紀後半)

 

 

オヤジさんと違って文化を愛し、啓蒙哲学者ヴォルテールをフランスから招いたこともあります。祖父の文化性と、父親の合理性とを程よくミックスして、それらを合わせ拡大した成果を上げ、プロイセンを一大強国に仕上げ、「フリードリヒ大王」と呼ばれるのです。

 

即位後前半は上画像のように、さんざん戦争をしました。オーストリアやフランス、ロシアなどの強国相手の度重なる戦争では追い詰められながらも、粘り強く持ち直し、領土を広げました。経済では飢饉に向けジャガイモを奨励したほか、啓蒙主義的な改革を進め、強国プロイセンのブランドを確立しました。

 

以後フリードリヒと、ヴィルヘルムの2つの名前を組み合わせたプロイセン王は、フランス革命の影響、ナポレオンの蹂躙にも柔軟に対応して国がなくなるのを防ぎました。その後軍政内政を改革し、ナポレオンを追い、民主革命をつぶしたりしながら、大宰相ビスマルクがドイツ帝国を完成しました。

 

最後の皇帝ヴィルヘルム2世が、第1次世界大戦の果て起こったドイツ革命で、退位するまで続いていきます。徳川将軍同様、有能な宰相に政治を任せ、皇帝自身は知られず結果を出していきます。

 

それにしても、3人で、もう誰が家康・秀忠・家光か分かりませんね(笑)初代の文化と2代目の軍隊、さらにその両方を拡大する3代目。偉大なる創業の初代、それを拡大させる2代、確率安定させる3代に、パターンは違いながら、似通ったものを感じるのです。