いわゆる“バカ殿”幸福ならずや? | 新労社 おりおりの記

いわゆる“バカ殿”幸福ならずや?

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バカ殿というと、志村けんのバカ殿イメージが強いのですが、漫才でなくとも、以下のような理由でバカ殿と言われるヒトは歴史上何人かいます。

 

・親先祖の栄光や資産を食べ尽くし、滅ぼしてしまった。

・その原因は本人が仕事を顧みず、遊びにうつつを抜かしたこと。

 

という感じです。志村けんも、面白おかしいのですが、“政治”に影響を与えたというシビアなイメージではありません。しかし遊び楽しむ漫才が面白いのと同様、彼ら自身の人生は、成果は出なくても、決して不幸ではなかったと思います。

 

組織を顧みずと言われ、家を滅ぼし、また天下人の遺産を継げなかった方は、何人かいますね。ただこれらの人々は果たして不幸だったのかというと、そうでもなかった、というところで歴史の再検証がなされているようです。

 

北条高時

 

鎌倉幕府を滅ぼす原因になったのは、執権北条家の主のこのヒトが堕落したからと言いますね。遊びにうつつを抜かし、無能な側近に政治を任せたから、足利・新田といった身内が反乱を起こしました。

 

しかし京都と鎌倉の拠点が陥落した時、一緒に自害した武士は数百人。勝ち馬に乗ればいいのに、まだ武士の倫理というのも江戸時代ほどではなかったのに、そうしなかった人が多かったのは、実にいい組織、忠誠を尽くしたい組織だったことは間違いないです。高時は“得宗”という北条家の総領でした。武家の決まりの基礎を作った泰時以来の遺産があったものの、北条家の武士に対する恩情は深いものだったと思います。

 

足利義政

 

応仁の乱の原因は、トップたる将軍義政の優柔不断さにあります。そこで妻や子どもが判断を誤り、家来どもが東西に分かれて戦うことになったのです。しかも彼自身は文化に耽溺し、政治を顧みなかったと言われています。以後の足利将軍は、枯れ木のようになってしまいました。

 

ただ彼は、次代を我が子に託し、その死後は政権に復帰し、しかし病に倒れ、甥への速やかな権力のバトンタッチは果たしました。戦国時代は実は応仁の乱から始まったのではなく、その後、家来の細川政元による将軍のクビのすげ替えから始まったと言われています。

 

織田信雄

 

このヒトは信長次男。偉大な父親の存命中から、その戦下手を散々ののしられました。信長の死後もその後継者になる資格はあったものの、家康を裏切ったり、秀吉に逆らったりして父の財産をすべて失いました。

 

ただ江戸時代に入って家康に付き、その子どもたちは幕末まで大名として存続し、自らは京に隠居し、茶や鷹狩りなど悠々自適の日々を送り、将軍徳川家光より、江戸城での茶会に招待され、戦国の話をしたりし、天寿を全うしました。

 

今川氏真

 

父義元が不慮の死を遂げた後、家康や周辺の大名に無茶な要求をしたりして、離反させてしまい、しまいには家康と信玄に国を分け取りされてしまったヒトです。家康と主従関係が逆転した後も、城主などは1年しか務まりませんでした。

 

しかし“自由人”となって、蹴鞠や歌道など、趣味を通じた公家との外交の人脈を重宝されつつ京都などに住み、文化の担い手として天寿を全うしました。

 

足利義昭

 

各地を流浪して信長のおかげで将軍になり、しかしその後裏切って、反信長の連合戦線を作って窮地に陥れました。ただしその失敗後は信長に追放され、毛利氏の庇護を受けることになり、室町幕府は滅びました。

 

その後は秀吉の良い話し相手になり、足利将軍の中では最も長命でした。またあの信長を、降参寸前まで追い込んだのは、スケールの大きい戦略家だったと言えなくもありません。信玄・謙信の死などの偶然がなければ、途方もない成功者になっていたかもしれないのです。

 

これらの評判の良くない戦国武将は、しかし幸せだったかと問われれば、なんと言うでしょうか?結果がすべてという価値観ですら、彼らは必ずしも不幸だったとは言えないのです。天下を取ったり、華々しい戦に勝ったりとか、そういうことがなくても家は残り、ついてくる人が大勢いて、やりたいことができたならば彼らは「幸せだった」というのではないでしょうか。