日本法皇列伝 | 新労社 おりおりの記

日本法皇列伝

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法皇というと、天皇が退位して、剃髪し出家した姿で、隠者になるようなのですが、なかなかそうもいかないところが、歴史の面白さです。中には歴史を動かすような方が何人もいました。1000年にわたる法皇の歴史の中で、特徴的な方を集めてみました。

 

宇多法皇

 

平安初期の法皇。それまでも出家する天皇はいたのですが、法皇の称号を始めて用いました。菅原道真を登用し、外交や行政改革に手腕を発揮させました。藤原氏の力を抑えようとしましたが、法皇になって修行に入れ込んだために、藤原氏の権力を掣肘するべく右大臣にした道真は左遷され、藤原氏の栄華が始まることになりました。

 

花山法皇

 

20歳にもならない前に「だまされて」出家した法皇。花山というのは出家した寺のことです。恋人の死でショックを受け、一緒に出家すると言った藤原道兼は途中で止めて、のちに関白になりました。これで道兼・道長の父、藤原兼家が摂政になり、彼の一族が栄えるモトになりました。法皇になった後も、ひそかに女通いして誤解で襲撃されるようなことが、藤原氏の権力争いに影響を与えました。

 

白河法皇

 

藤原氏の時代から、院政時代の扉を開いた法皇。30代の若さで譲位し、幼帝を補佐する意味で始めた院政でしたが、藤原家に有能な人が出なかったこともあって、権力を握ることになりました。非常に有能な「英雄」で、その後皇女の病没で法皇になりましたが、天皇3代にわたって院政を続けた権力者になりました。院政は結果として武士の時代を開きました。

 

後白河法皇

 

「遊びをせんとや生まれけむ」歌を歌うのが大好きで「梁塵秘抄」の書籍まで著し、天皇にならないと思われていましたが、皇室の政治のバランスを取って中継ぎの"予定"で即位しました。34年も権力を握り、祖父白河法皇と同様、院政を敷きましたが、武士の戦乱の間に、何度も院政停止に追い込まれました。平氏と源氏を絶妙の政治感覚で操ったかに見えましたが、最終的には武士の世を招来することになりました。

 

後高倉法皇

 

天皇だったことがなくて法皇になって院政を行いました。守貞親王といって、平家と沈んだ安徳天皇の兄にあたり、平家の都落ちに連れていかれたので、弟の後鳥羽天皇が即位したのです。その後地位が宙に浮いた形となって出家しましたが、承久の乱で後鳥羽上皇の一派がすべて島流しになり、皇族がいなくなって彼の三男が9歳で後堀河天皇として即位したのです。親の守貞親王は治天の君として鎌倉幕府によって院政を行う法皇になりました。その後2年で薨去しました。

 

父親が天皇でなかった天皇は、父親に院号を贈ることがあります。南北朝時代は後崇光院、安土・桃山時代は陽光院、江戸時代は慶光院がいました。いずれも天皇の称号がありましたが歴代には入っていません。陽光院、慶光院は薨去後の追贈、生存中出家していて「法皇」(地位的には太上天皇)になったのは後高倉法皇と後崇光法皇です。

 

後嵯峨法皇

 

承久の乱の後鳥羽上皇の後、鎌倉幕府といさかいを起こさず、協調主義で院政を進めた法皇。鎌倉将軍を皇族とし、ある意味公武合体をすすめ、平和な世を作りました。ただ跡継ぎをしっかり決めておかなかったために、長男は鎌倉将軍でしたが、次男は北朝、三男は南朝のもとになり、200年続く大乱のもとになりました。

 

花園法皇

 

天皇のときは父と兄に院政を敷かれ、しかししっかりした思想の持ち主だったようで、南北朝の動乱を言い当て、自分の屋敷を寺にして、高僧を師として呼び、妙心寺を開き、家系の違う後醍醐天皇の治世を応援しました。禅の実践を尊び、妙心寺の一帯は花園という名で、現在は禅研究の大学まであります。

 

後崇光法皇

 

南北朝時代の「北朝3」の天皇、崇光天皇の孫。天皇になったことはないですが、子が後花園天皇になったため、傍系の子孫が尽きた後小松天皇の逆鱗に触れて出家していて「法皇」になりました。しかし3か月で辞退しています。「まつりごとはもうこりごり」と思ったのかもしれません。人生のほとんどを遊芸に費やし、84歳の長寿でした。

 

後水尾法皇

 

江戸時代初期、江戸幕府は院政を認めなかったのですが、これを跳ね返した法皇。強い意志で日の出の勢いの江戸幕府の非礼に、天皇をやめて譲位し、堂々と言い返し、皇室を守ろうとしました。85歳で亡くなるまでに、4人の天皇を始め、30人以上の子女を作りました。また学問好きで、「伊勢物語御抄」を著し、その伝統は、その後の皇室が復興するもとになりました。

 

明正法皇

 

唯一徳川将軍家を外戚とした天皇で、女性法皇でした。2代将軍徳川秀忠の孫です。後水尾天皇譲位後7歳で即位、21歳でまた譲位しました。完全なお飾りでしたが、譲位してからも厳しく外部と隔離され、権力の行使を許されず、利用されるのを徳川家光や後水尾法皇が防ぎました。法皇になりましたが、隔離状態は74歳で崩御されるまで同じだったようです。

 

霊元法皇

 

現在のところ最後の法皇。父後水尾法皇の遺志を受け継いで、江戸幕府とは距離を置きました。結構な“自由人”で、奔放な振る舞いがあった一方、時の天皇や公家が幕府に近寄ろうということもあったのですが、押しとどめ、80歳近い長寿で院政を続けました。和歌集を編纂し、能書家でもありました。

 

法皇は出家はするのですが、自由な立場になり、また長寿なヒトが多かったというのもあって、明正法皇のような例外を除き、その発言力が強いのですね。日本で2重権力がなぜ多いかというと、チェック機能がお互いに働くから、腐敗が起こりにくいと言います。それに加えて出家という「外部のヒト」になると、ますますその発言が重みを増す効果もあります。

 

しかしそこは「自由人」。遊びにうつつを抜かしたり、出家したのに女のところに通ったり、奇行をはたらくことも多かったようです。文化面に貢献しましたが、自由人の行動と、重要な立場のギャップで、しばしば何でもないことが重要な政治の梃子になって、歴史を旋回することも多かったようです。