さよなら急行「きたぐに」
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大阪―新潟を走る夜行急行列車です。大学が新潟で、故郷が四国の松山だったので、何十回利用したことでしょう。新潟―松山約1,000kmは自転車やバイクでも往来しましたが、もっとも利用の多かったのがこの急行「きたぐに」です。
しかしついに大阪―青森のこれも歴史ある寝台特急「日本海」 とともに、その定期運行を止めることになりました。両方とも昭和43年生まれで私と同い年です。
下左写真は、23年前の夜の新潟駅。下右写真は学生時代末期に撮った、信越本線、亀田⇒越後石山を走る、新潟まであと一息の「きたぐに」です。10両編成ですので、非常に長いイメージがあります。
25年前、進学が決まり、初めて新潟に降り立ったのも「きたぐに」です。新潟から実家のある松山に帰省するにしても、貧乏学生らしく、乗ったのは自由席と、タマに奮発してB寝台というところでした。
A寝台やグリーン車はついに試みませんでしたが、4人掛けながらゆったりとした作りの自由席でも、十分快適な夜を過ごすことができたのです。AB寝台、グリーン車、普通車と、バラエティに富んだ種類の設備のある昔ながらの列車です。
きらびやかな都会の光芒から、夜の闇に滑り出すと、音の悪いオルゴール音とともに、車内放送で、「停車駅は敦賀、武生、福井、小松、金沢…」と、遠い北国の、あるいは関西の街の停車駅を列挙されると、急に旅情が増したものでした。
そして夜が明けると新潟の雪景色に、それと反対に晴れ渡った関西の街並みを見るたびに、新しい1日の始まりを新鮮な景色で彩るというのは、夜行列車ならではです。
私の思い出とは別に、この「きたぐに」は特筆すべき歴史があります。一番のトピックは昭和47年の…
でしょう。当時は15両編成で、大阪から青森まで行く長距離列車でしたので、食堂車を連結していました。その食堂車から出火したのです。結果として30人死亡、714人負傷という大惨事になりました。これ以降、鉄道車両の難燃化、トンネルの火災安全対策が大いに進化しました。
こんな事故があっても、また昼走る新潟―青森が廃止されても、関西―新潟の夜行需要は多く、これまで何とか生き残ってきました。しかし北前船以来の日本海縦貫線は、旅客需要はどんどん飛行機に奪われて行きました。長年にわたり命脈を保った大阪―青森の定期直通列車も、今日を持ってついになくなります。
下写真は左右とも青森駅で、これから津軽海峡をくぐって函館へ行こうとしている、全盛期の「日本海1号」です。当時は1号から4号までありました。
日本海縦貫線を青森から関西まではるばる走る列車も、定期では貨物列車以外にはなくなりそうです。
これも、夜は移動して昼は働くという、モーレツ時代の終わりでしょうか。「きたぐに」の寝台よりはるかに劣悪な寝台で、全国を飛び回り高度成長時代を支えたビジネスマンを乗せた夜行列車は、昔話になりました。今は「疲れも省みず働く」よりも、「カラダを省みて働く」時代でしょう。