岩手紀行③ 水沢の街と震災再建者、後藤新平 | 新労社 おりおりの記

岩手紀行③ 水沢の街と震災再建者、後藤新平

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北上から奥州市水沢区 までは、東北本線のローカル列車で3駅です。


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88年前の復興院、後藤新平が主導 問われるトップの力量

 

水沢は偉人の町です。もともと小さい城下町だったのですが、幕末以来、高野長英、後藤新平、斎藤実をはじめ、近代史に重要な人物を輩出しています。最初はアーケードを行きます。上右写真のようにシャッター街でもなく、人々で賑わっています。


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10分も歩くと、上写真左のような武家屋敷の遺構が方々で目に付くようになります。その一角に上写真右「後藤伯記念公民館 」があります。これ、日本で最初の公民館なのです。読売新聞の中興の祖、正力松太郎が、この裏手にある記念館の主、伯爵・後藤新平の考えに基づいて作ったのです。

 

後述の椎名悦三郎、当時の商工省局長が、叔父の後藤新平から読売新聞買収のために10万円を寄付してもらった正力松太郎から声を掛けられたのです。「後藤伯の恩に報いるため、故郷の水沢に後藤伯を記念した公会堂を建てたい。知恵を貸してほしい」と正力は椎名に頼んだのです。

 

ただ1939年当時は、日中戦争の戦時下で公会堂、劇場、旅館などの新築は許されていませんでした。そこで椎名局長は設置が許されるように「公民館」としての新設することにしたのです。正力に対して呼びかけ、彼のおカネで1941年にできました。

 

結構広々とした公民館では、休日なのでフォークダンスの講習と、小学生向けの柔道教室をやっていました。社会教育の場として、公民館の趣旨に沿った活用が現在も脈々と行われているようです。


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この公民館に胸像がありました。この主こそ、本旅行の目的の1つ、上左写真の後藤新平です。ボーイスカウトの帽子をかぶった、気さくな表情ですが、外務・内務大臣、鉄道院総裁、東京放送局総裁、台湾民政長官、南満州鉄道総裁、東京市長(現在の東京都知事)と要職を歴任し、関東大震災復興の功労者として辣腕を振るった大人物です。

 

順送りでなったのではなく、いずれも実力を買われ、時には三顧の礼で迎えられ、日本ばかりでなく、台湾や満州でも実績を挙げたのです。新平ほどの知名度でなくても、昔はそういうテクノクラートが大勢いました。

 

公民館に隣接した上右写真の記念館はもちろん行ってきました。彼はもともと医者で、専門は今日の労働安全衛生法 につながる衛生事業でした。しかしアタマの良さを周りが放っておかず、処女地台湾・満州のインフラ整備、さらには鉄道・ラジオ放送の発展に端緒を付け、大震災の処理、ボーイスカウト運動の振興までやり遂げたのです。

 

彼が台湾・満州に行かずに、内務省の衛生局長をもっとやっていれば、労働基準法の前身にあたる工場法健康保険法 も、もっと早くできていたものと惜しまれています。

 

分野を問わず非常にデキル人だったのです。館内では、大震災直後の時節柄、関東大震災で新平がなした役割や事業が記された特別展をやっていました。彼の生きざまは、彼自身の以下の発言に集約されるでしょう。

 

☆ 人生において、カネを残すは下、仕事を残すは中、ヒトを残すは上。

 

根っからの人材好きだったのです。乞われるばかりでなく、さまざまな内閣の組閣をはじめとするプロジェクトで、有用な人材を引っ張ってきた手腕は、彼の伝記以外の記録でさえ、枚挙にいとまがありません。

次は水沢の「偉人通り」を行きます。まず現れるのは下写真の内田家です。水沢藩ナンバー2の家老格の邸宅です。ここに市の職員が常駐し、周囲の武家屋敷を管理しています。いろりからは煙が出ています。

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続いて、後藤新平が15歳まで育った邸宅です。後藤家は下級武士です。内田邸の3分の1くらいの大きさ4LDKといったところです。

 

下左写真の玄関先では、かつて幼い新平が、父親を呼び捨てとは何事だ!と訪ねてきた父親の師匠を追い返したそうです。右は勉強部屋です。


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また下左写真「新平縛られの小屋」も裏手にあります。ヤンチャするとここで反省させられたのですが、「事情を聴くべきではないか?」と幼いながら母親にも節を曲げなかったそうです。

 

この辺りの挿話が新平を、人生の苦労を生かした「大物」たらしめた理由ではないでしょうか。苦労というものは、他人から押し付けられるものより、自分で作った節を曲げないところから始まったものの方が、良い結果を生むようです。これで「小さい自分」を捨てることができ、人材の招聘につながるのです。

 

現在の政治家にないものは、実にカッコいい、節を曲げずに苦労する合理性、というところではないでしょうか。苦労と合理性、どちらかが欠けているのです。新平の頃は政治体制が違い、緊急勅令でスピーディに施策ができた、というところもありますが、良かれと思えば独自にドンドン行動に移すという人材が渇望されているような気がします。

 

もっとも節を曲げない合理性ゆえに、口が悪くトラブルを恐れず、徒党を組まない新平は総理大臣にはなれませんでした。しかし昨今の総理大臣を10人束にしても、実績において彼一人にかなわないかも知れません。

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後藤新平の大伯父が、幕末の蘭学者、高野長英です。その誕生の地にも、上右写真のように石碑が建てられ、小公園になっています。幕末でも長英ら早い時期の活動家は、迫害を受けて非業の死を遂げることも多かったのですが。江戸幕府に迫害された彼の合理的な洋学思想は、後藤新平や、彼が育てた小壮官僚に引き継がれていったのです。

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その小壮官僚の1人が、後藤新平の公民館を造った立役者、上左写真の銅像、椎名悦三郎、自民党副総裁です。「椎名裁定 」が彼の政治生活のハイライトでしたが、モットーは「省事」。ムダなことはやらないという合理的な姿勢です。1本筋が通っていて合理的な点で、長英や叔父の後藤新平と似ています。

 

上右写真は椎名氏に寄贈された飲み水台です。古いから出ないかもと、ひねってみたらピューッと出ました。きちんと整備されているようです。

 

最後は斎藤実元首相の記念館です。


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この記念館は斎藤元首相とともに、その奥さん、春子夫人も顕彰されています。後藤新平と同窓で、英語ペラペラな国際派、総理大臣の夫に、私が生まれた後まで長命し、これも英語の堪能な春子夫人と、郷土の誇りとしては甲乙つけがたいものがあるのでしょう。団体客で賑わう後藤記念館と比べて、ここは私1人の入場です。

 

個性で人気のある後藤新平と比べて、彼は地味ですが、新平のなれなかった総理大臣になりました。新平より長生きしたというのもありますが、興味深い現象です。

 

間もなく列車の時間が来て駅まで戻り、水沢から1時間かけて北上し、盛岡に行きます。

 

(④に続きます)