労務管理事務所 新労社代表、東京都渋谷区の社労士、深石 圭介と申します。雇用関係の助成金と労務管理を専門に、お仕事をしています。皆様よろしくお願いいたします。
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密教ワンダーランド 石手寺
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密教というのは、経典や念仏など読むことより、儀礼や象徴、修行などの行動によって悟る宗教です。多くのヒトに空気のようになんとなくあった仏教を、モノや苦行による「秘密の教え」として理論づけたものです。石手寺に行けばその教えが実際に体感できるよ、というものです。
(順路)
日本のすべての宗派は巨きな社会的視点で仏にすがる大乗仏教ですが、仏に近づくには特別の方法があるぞ、それを信じれば教えてあげよう、そして実行すれば幸せになれるよ、というものです。天国でどうこうというより、現世利益的です。
(るるぶ松山より)
その特別の方法がいろいろあるから面白いのです。愛媛県の88か所の51番札所、石手寺にはその要素があれこれ詰まっています。チャットGPTによると密教寺院の中でも個性的な寺だそうです。ここでは修行の方法などでなく、どう楽しんだらいいかを書いてみましょう。石手寺には今年の初詣を含め50回くらいは行きました。
平安の昔、弘法大師を迫害して後悔した衛門三郎というヒトが、行き倒れた死に際に、大師が現れて手に石を握らせ、成仏し転生したのが石手寺の始まり伝説です。寺の思想は、仏教に基づきますが何党ということでない、平和主義に基づく護憲派です。
(石手寺の小冊子)
1,「商店街」から国宝仁王門へ
弘法大師の像やバス停のあるところから「アーケード街」があります。仏具もあるし、屋台食べ物も年末年始などには出ます。お参りが混んで並んでもタイクツしません。天井には昔からの絵や経文など。参詣者を大事にするサービスです。通路は石畳です。ネコがいることもあります。
2,門から入って本堂でお参り
仁王門から入ると、カレンダーやありがたい小冊子が無料で配られています。進んで本堂でお参り。右に三重塔、左に梵鐘があります。三重塔は入れませんが、梵鐘は誰でも突くことができます。密教といっても、大衆に訴えた鎌倉仏教に対抗するため、開けっぴろげにしたところもあるのです。
3,右へ行って一回り
本殿向かって右はさまざまな木像や、小さい社殿が並びます。マントラの入り口もあります。お札やお守り、お守りを売る店の前には、線香のモウモウたる煙。さらに左に行くと池の鯉を備えた静かな庭園。その入り口で今は亡き犬を待たせてお参りしたものです。そのさらに右奥には僧房があって、お坊さんが仕事をしています。有料の宝物殿も近くに。泊るところはありません。
(大師の分身も1本、閻魔様にお守り店)
4,左へ行って一回り
本殿左は住宅地も迫り、細長い立地。ビルマ戦線の戦死者を悼むパコダ堂、他に硫黄島など、第二次大戦の戦死者を悼む碑があります。「小さい」88か所巡りもここがスタート。四国一周しなくても三重塔を回る、石手寺の裏山を回るだけで「結願」できるのです。
5,上に行って一回り
戦死者供養の碑の脇から登山道が出ています。石像や祠がある中登ると、展望台があります。この辺りから石手寺背後の山の88か所めぐりが可能なのです。山の中腹の稜線を伝って、お地蔵さんのような石像をめぐるのです。50年ほど前は山頂近くにトリムコースがあって、「手漕ぎロープウェー」でターザンごっこができたものです。
(展望台と古墳)
また、坂の途中には古墳もあります。石室が再現されていて、寺が開かれる前からあったものでしょう。寺と古墳の同居はあちこちであるもので、地域のよりどころは何千年でも変わらないものです。この石手寺裏山の山塊には、他にも義安寺や伊佐爾波神社などもあって、ブラタモリの題材にもなった伝統ある土地柄なのです。
(へんろ道にもどんぐりがいっぱい)
6,山の下くぐって丘へ
本堂の境内に戻って、今度は山の内部トンネルに行きます。ここはマントラ=「短文の箴言」神聖な言葉や音のことで、道々に石像があり、その周囲にお札箴言が書かれています。白熱灯のような電球にろうそくの火、こういう暗くて少し湿ったような暗い環境で箴言を読めば、また石像を見れば仏を恐れる気持ちになる気がします。
マントラは一本道でなく、広いところもあって大石像や祭壇があり、左側通行で2導線あり、思ったより狭さを感じさせません。分かれ道あり「個室」あり、電灯はありますが、まったく浮かれた気持を鎮めるのにいい静寂と暗さです。
この石手寺裏山を抜けると、道後温泉まで第2のルート「風土記の丘」です。50年以上前の文化庁「風土記の丘設置構想」により地元のヒトが付けた名前ですが、今はわざわざ峠を越えて温泉に行く人もなく、ひっそりとしています。
(道後村めぐりスタンプ)
仏像や木造が並べられた納骨堂のようなところもありますが、とてもここまでは手が回りません、という風情で、荒れた農地や、クマが喜びそうな柿の実の実り過ぎた樹もあります。
(伊佐爾波神社と風土記の丘)
温泉に向かって登り、下っていくと、テニスコートを経て伊佐爾波神社の境内。長々とした階段を降りて右折して道後温泉です。平地を道後温泉に向かって広い歩道を歩くのもいいのですが、こちらは行く人も少ない山岳ルートです。
(温泉駅から伊佐爾波神社を望む)
密教の寺院は、大衆に親しみやすい88か所巡りのほかに、とにかく呪術的な分かりずらい、閻魔大王さまが出てくるような不気味なフォービズム(おどかすような見せ方)があるので深いのです。長い歴史の伝説にそれら石像や「施設」が相まって、パワースポットの“力”を醸すのでしょう。
<完>
天竜浜名湖鉄道天浜線を乗り通す!
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前の日の続きです。
豊橋での朝、朝食を摂りながら天竜浜名湖鉄道、天竜浜名湖線(天浜線)を乗り通してみようと決めました。長年、東海道西下中、掛川で分かれるローカル線を見ていたのもありますし、大井川鉄道や静鉄電車、伊豆箱根鉄道駿豆線よりも、東京から遠いからです。
(豊橋駅)
起点新所原に着いたのは午前11時前。駅では有人窓口のほかに、うなぎ屋が営業していてお昼前、予約電話がけっこうかかっています。発車まで40分もあるので駅前を回りましたが一軒家の多い普通の豊橋のベッドタウン、住宅地です。
(新所原駅)
全線フリー切符を買って、19分前に折り返しのディーゼルカー(汽車)が到着。1両だけですが、40人くらいも乗っていたでしょうか?お年寄りばかりでなく若い衆もいて、押すな押すなの有人改札。日常的に使われている感じ。かつて廃止になったローカル線にとって喜ばしいことです。11:23、10人ほどを乗せて発車。
① 浜名湖を行く
アスモ前、大森、知波田と、疎林と畑の中を行きます。知波田は古い駅ですが、アスモ前などは需要があって、国鉄二俣線廃止後につくられた停留所です。天浜線はけっこう古い駅舎が残っていて、まちの文化財にも指定されています。
(キャベツとみかん畑)
まもなく浜名湖が見えてきます。小トンネルをくぐって支湖の猪鼻湖。この辺りは「奥浜名」。低い丘陵と果樹園の向こうに青い湖面が見えます。
古い駅舎の三ケ日で列車交換。気賀まで浜名湖が車窓の友になります。東名高速と並行する浜名湖佐久米では、カモメが一斉に飛び立つさまも見ました。海水混じりの汽水湖なのです。
(浜名湖)
浜名湖を離れて金指で列車交換。ここも古い駅で2つ先の都田では、古い駅舎に駅カフェもありました。文化財のみならず活用されているようです。浜松平野の端、宮口を経て西鹿島では遠州鉄道に連絡、電車がいます。天浜線では、ここから新浜松に行く人のために天竜二俣までのフリー切符も売っています。
(金指と西鹿島)
② 天竜二俣のにぎわいと静寂
13時前に天竜二俣駅で降ります。もとの天竜市の中心。浜松市に合併され今は天竜区です。昨日行った佐久間駅や水窪駅なども含む、17の政令指定都市より面積の広い広大な区です。
(天竜二俣駅構内)
駅と駅前は休日のためもありますが、大いににぎわっていました。鉄道の拠点で見学できる機関区があるのです。隣の食堂も満員、周囲の公園などにも、車両の撮影をする人や家族連れでたくさん人がいます。サイクリングの集団も立ち寄っていました。
(キハ20気動車と20系寝台客車、C58蒸機)
駅内外はいろいろ楽しめるものがあります。私がかつて乗ったこともあるキハ20気動車や20系客車、SLもありました。13:50からは駅の機関庫見学ツアーが40分ほどであります。ただ私は混雑しそうな機関区より、二俣の市街地に行ってみました。
天竜川の湾曲を利用した要害の二俣城の城下町、火事守りの秋葉神社へ向かう門前町、そこに行く秋葉街道の宿場町の3種類を兼ね備えていて、興味をそそったからです。二俣城は天竜川の湾曲地点を生かしていて、難攻不落の長篠城に似ています。何気な川の合流点、水場から始まって、交通の便もよくなって領主も住む、昔から便利な街なのです。
商店街はシャッター街で、飲食店などはありませんでしたが、そこここに風情のある宿屋が多いのです。旅人のほかに参詣客や商売人や行政相手の陳情者なども去来したところです。今でも固定客で持っている感じ。ちょっと欄干にもたれて外を眺めてみたいような風情や、建て替えたばかりの、知る人ぞ知るのかもしれない、しっとりとした流行りのデザインっぽい旅館もあります。
(旅館いろいろ。現役ですよ)
川を渡って、神社や住宅など見て、駅の賑わいとは対照的な静かさを体感し、駅に戻り13:50からのツアーではなく、同時刻発の掛川行きの汽車に乗ります。
③ あじさい寺で8分間!
さあどこで降りようか?「遠州の小京都、森」も面白そうながら「遠州の一番のお宮」にそそられて、遠州一宮駅で降りることにしました。14:05。ただし降りてみると「一宮」は徒歩40分、次の汽車までいられるのは1時間だから、ちょっと厳しい。そこで徒歩20分のあじさい寺に行くことにしました。
ところがスマホも地図も見ずに、距離の不確かな駅前の案内板だけ見て、方角を気にせず歩くと、とんでもない大回りをすることになります。大平原を逆方向の汽車が行くのを見送りながら、トボトボ歩道もない農道を30分も歩くことになりました。残るは30分、さあ急いで見物して帰らねばなりません。
(駅前案内板)
それにしてもこういう大平原は、1月で鳥の声や虫の声、風の音すら聞こえず、非常な静寂です。下り列車が天竜二俣方面に動いていったレールのジョイント音以外は、自動車のエンジン音も吸い込まれ、時も停止したようになり、歩いても時間が経った感覚がなくなるのです。この田園、静岡県周智郡森町は天竜二俣と同じように秋葉街道の宿場で、静岡らしくお茶の産地ですが一宮のあたりは茶畑はありませんでした。斜面がないとお茶は栽培しにくいでしょう。
(田園風景と幹線道路)
ビニールハウスが多いのは、日が当たるので、寒ささえクリアすれば作物ができるからでしょう。野菜類など旬のモノが季節外でも楽しめるのはこのハウスのおかげです。
山の端を抜けると、幹線道路とは微妙に離れた山すその集落「三木の里」。大平原の景色に包まれると、何十分ですがホッとした気持ちになります。里の一画にあじさい寺こと極楽寺があります。
(季節ではないが想像はできる)
あじさいの季節ではないですが、個性的で由緒ありそうなお寺です。あじさいを極楽浄土の蓮の葉に見立てて、赤い橋が架かって花見するという舞台装置。開基は1,300年も前、奈良の大仏を造った大僧正、行基自ら彫った阿弥陀如来が本尊です。寒い季節でもお参りにくる家族連れもいましたし、行きずりの旅行者でも寺のヒトはあいさつしてくれます。
ただ滞在は8分。朝の豊橋以来、昼ご飯はまだです。小走りに寒い中汗だくで走って、途中のコンビニでおにぎりを買って、15分で戻ってきました。一宮駅のホームでガツガツ食し、食べ終わったところで汽車が来ました。それにしてもよく1人のサイクリストが来ます。コースになっていると思われます。平坦地が多いので走りやすいでしょう。
(遠州の小京都:森町)
④ 遠州一宮⇒遠州森⇒掛川
15:05、乗った汽車は転換クロスシート。2人掛けで快適に行きます。この辺りは一層古い駅舎が多く、文化財に指定されています。もともとこの天浜線(国鉄二俣線)が開業したのは掛川から、この遠州森までで、今年85周年。一宮から丘陵を縫って3つ目が遠州森です。
(森駅と製茶工場)
けっこう乗るヒトがいて、立席すら出るありさまでした。見ると森町の静岡茶の工場とか、京都に似た地形や歴史、伝統芸能などもあるようで、ここで降りてもよかった!と後悔したものです。後悔も旅のうち。また来ることがあるやもしれません。
(原谷と桜木)
原谷、桜木駅は85年前開業時からある駅で、これも文化財です。観光客の他、地元の人が乗っても、ちゃんとお年寄りも座れる、ちょうどいい輸送量かと思います。西掛川は数年前に東海道自転車行で通ったことがあり、懐かしく眺めました。15:38、掛川到着。4回目の掛川です。
(駅ごとにアニメキャラ)
東海道53次、平原と松並木 掛川宿⇒舞阪宿 掛川城・浜松城攻略!
行きあたりばったりの旅行でしたが、天浜線の西側は割と明るい浜名湖水のリゾートめぐり、天竜二俣より東は機関区はじめ渋いローカル輸送に活路を見出しているように感じました。とにかく全体に乗客は多く、しかし座れないほどではなく、ワンマン乗降スタイルも定着し、お客さんは満足しているように見えました。
(奥浜名ふきん)
高速道路や新幹線、東海道線が並行していますが、それらと雰囲気が全然違うのんびりした癒しがあり、駅員の態度も神経質なところがなく、親切でいいのです。人口が比較的多い立地と渋くてウケる鉄道観光を活かして活きることでしょう。
(東海道線前面展望)
東海道線に乗り換えて、ロングシートの電車が入ってきます。座ったままではタイクツですので、最先頭に立って大井川橋梁など動画で撮影します。小夜の中山のトンネルに、大井川の鉄橋など、長編成の貨物列車が行きかう幹線で退屈しません。「越すに越されぬ大井川」以前自転車で渡ったところを数分で渡ります。
(碑は箱根、大井川橋梁)
魚のうまい焼津で降りました。駅前の健康ランドでフロに入り、案内書で尋ねて本格的夕食にマグロ丼をいただいて帰途に着きました。
(貨物列車と焼津駅)
フロの間に日が暮れ、窓の景色も平凡になって、本を読みながら静岡、富士を経て丹那トンネルをくぐります。小田原に至り、切符は終点で断ってもらいました。新幹線や特急は一度も使わず、小田急の急行で20時過ぎ、新宿に着きました。鉄道と観光地でも何でもないところをなんとなく気まぐれに歩く旅行。そんなのがマイブームになりつつあります。
<完>
廃止助成金「駆け込み」の方法
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令和8年度助成金のゆくえ(下)の中に来年度廃止になる助成金が3つあります。ただ廃止になるといっても、しかるべき措置を成しておけば、廃止後も支給申請まで行けるのです。“経過措置”というものですね。4月に廃止になる前に、要件が合えば申請したいものですが、どういうタイミングでどこまで申請すればイケるものでしょうか。
助成金には「計画⇒実行⇒支給申請」という流れの中に「計画の認定」「要件の確定」「時効の起算」という時期があります。このうち「計画の認定」を3月末の年度末までにやることです。
「計画の認定」⇔計画
言わずと知れた助成金の切り出し。こういうことをやるよ~と当局に宣言し認められることです。計画した結果やらなかった、というのは特にとがめられることもありません。当局も忙しいですからね。
「要件の確定」⇔実行
支給申請の前の段階で「助成金申請にツバつけた」というコトになり、それが当局に知られれば(申請すれば)、勝手にやめるというコトもできなくなるのです。追加書類が認められる場合もあれば「もう知っちゃったからダメ~」とケンもホロロに言われることもあります。電子申請でも同じです。
「時効の起算」⇔支給申請
おおむねどの助成金でも支給決定を出した日付です。「よろしい!御社におカネを出してあげよう!」という当局の決断の日です。ここから5年、書類を保存しないといけない決まりです。不正でカネを返す義務はここから出てきます。助成金業務は農業に例えると…
「計画の認定」で種をまき…ここで申請する権利が得られる。
「要件の確定」で収穫物を整えて売りに出し…受理されれば、ヒト作業終った!あとは売れるかどうか。
「時効の起算=支給決定通知」で収入になる…よし!とお墨付きが出た。めでたしめでたし。
といった感じでしょうか。「計画の計画の認定」(キャリアアップや認定実習である)は地ならし、あとで調査が入ることは、ワルイものを作っていないだろうな?というお代官様の検査でしょうか。
計画からいろいろやりましたが最後期限に遅れました、だから諦めます、ということは当局では現実「放っとけ」となるところですが、本来、計画出してお上の手を煩わせたのだから、会社から「申請取り下げ」をするところです。時効の起算はどの助成金でもあるとして、計画の認定と要件の確定は、メジャーな助成金ではどうでしょう?
★ 雇用調整助成金であれば・・・
「計画の認定」は休業計画を労働局に認定された時点。(コロナでは緊急ゆえに省略)「要件の確定」は、その証拠書類をそろえた時点。
★ キャリアアップ助成金 正社員化コースであれば・・・
非正規社員が正社員になった時が「計画の認定」で、6か月雇用して証拠書類がそろって「要件の確定」となります。キャリアアップ計画は「計画の計画の認定」で、必要なものですが、あまり実効性がありません。
この4月になくなる助成金はいかがでしょうか。雇調金や正社員化に比べてちょっと複雑です。複雑ゆえになくなる面もあるんですけどね。「計画の認定」を3月末までにやる必要があるのです。
○ 早期再就職支援等助成金 UIJターンコース
「計画の認定」…計画(採用)期間を長め(半年~1年)に設定し、3月末までに採用計画書を受理されること。
計画を令和8年3月以前に始められるよう調整すれば、2026年度以降の採用活動までカバーできます。
「要件の確定」…UIJターン該当者を正規雇用で採用し、6か月間の雇用継続と賃金支払いが完了し
「移住実態」と「要件事実」の書類をそろえた時点。ここから2か月以内に支給申請です。
〇 特開金 成長分野等人材確保・育成コース
「計画の認定」…対象者の雇入れ日を3月末日以前に確定させ、育成計画や必要書類を添付して計画を出すこと。
ヒトを雇用する成長分野メニューはもとより、人開金を用いた人材育成メニューでも同じで、もちろん雇い入れるところは成長分野(情報処理、通信、研究・技術)の仕事であることが必要です。
「要件の確定」
4月以降一定期間(原則6か月)の雇用継続・賃金支払い・OJT等の育成実施がすべて事実として完了し、「成長分野該当性」「職務内容」「育成内容」の証拠書類を集めた時点で申請できます。
なお、3月までに間に合わず、育成計画がムダになったならば、その育成計画は人開金 人材育成支援コースなどで代替可能です。
〇 キャリアアップ助成金 社会保険適用時処遇改善コース
「計画の認定」…3月末までに手当支給・労働時間延長などの取組の計画書を出し労働局の認定を受けます。キャリアアップ計画を出しさえしていればイケる、というモノではありません。
「要件の確定」
これはちょっとややこしい。計画の認定を受ければ、4月以降対象労働者を社会保険に新規適用し、その後で処遇改善(賃金増・手当新設等、25年度の内容)を実施し、原則6か月その状態での雇用継続と賃金支払いが完了し、かつ「適用理由」「処遇改善の中身」「実態」の証拠書類を完了した時点で申請できます。
これも3月末まで間に合わない場合、計画書などを短時間労働者労働時間延長支援コースに流用可能です。
また、なくなりませんが4月から厳しくなる助成金はどうでしょうか?
◇ 早期再就職支援等助成金 中途採用拡大コースの、45歳以上優遇Bコース・・・来年度廃止
「計画の認定」…中途採用者を対象とした雇用管理制度の整備計画を建て、受理されること。
一番重要なのは、中途採用拡大に取り組む期間(通常1年間)を設定することで、それを含めた45歳以上優遇コースの要件を満たす計画の認定を3月中に終えることが必要です。雇用は4月以降でも大丈夫。
「要件の確定」
中途採用率を計画期間前の3年間と比較して20ポイント以上向上させ、45歳以上の採用率を10ポイント以上向上させる。45歳以上の採用者全員の給与を雇用前と比べて5%以上引上げることができれば、4月以降申請可能です。
(Bコースは3月31日まで!)
◇ 両立支援等助成金 不妊治療及び女性の健康課題対応両立支援コース
「計画の認定」…ちょっと手間が多いです。
社内で両立支援制度の中身を“確定”させ、 就業規則等を改定し「施行」、さらに両立支援計画を作成し認定され、その計画認定通知書を会社で受領していることが必要です。3コース全部やるならば3コース全部両立支援制度として入れることが必要です。
「要件の確定」
計画が認定されていれば、後は実際に制度を利用させ、添付書類をそろえるだけです。対象労働者の各制度利用期間が合計5日 (回)を経過する日の翌日から2ヶ月以内です。
助成金は最近特にややこしく、落とし穴が多くなっています。その落とし穴に入らないようにするのが社労士の役割の1つです。会社の入れたい制度と、当局の求める制度は齟齬が出る場合も多い、それを「計画の認定」「要件の確定」で確認するのも役割の1つです。
<完>
長距離ドン行90駅7時間近く乗り通し!
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長野県:上諏訪⇒愛知県:豊橋間を、飯田線普通列車544Mに乗って6時間54分、90駅(下地、船町除く)、丹念に停まって乗り通してきました。令和8年1月現在“日本最長時間を走る鈍行”です。
大昔は大垣夜行(これも7時間ほど)や予讃線の客車列車(6:28~13:37で7時間)など乗ったものでした。ずっと同じ席で過ごして各駅に停まり、ゆっくりとした時間の経過と車内外の景色の変化を楽しむのです。
この544Mは、冬でも明るいうちに飯田線全線乗り通せる貴重な列車。ただし途中長時間停車は宮田駅の8分のみ。あとは臨時で長く停まることがあっても、ローカル駅でコンビニもない、令和8年1月17日、青春18きっぷのシーズンでもないのに、特急とすれ違いながら出発進行!
(これは中央線)
① 新宿⇒上諏訪⇒辰野
新宿を出たのが5:16。通勤電車で出て、高尾乗換で中央東線を211系各停で行きます。暗闇に目を凝らし、ワクワクしながらの4人掛けシート。上野原あたりで夜が明けます。車内は7人ほど。
塩山から甲府盆地に入ると、甲府に向かう高校生などが大勢乗ってきて、甲府盆地に入って富士山を望みながら小淵沢、茅野を経て上諏訪に着いたのが8:54。足湯に入ってみたのですが、湯がぬるくて、素足から上がってくる上半身の空気が寒くてガチガチに震えが来て1分もいられませんでした。
普通列車544M豊橋行は313系電車の300番代、3両編成ですでに入線しています。むかしの特急並み転換クロスシート車で、最後尾車両1番乗りで車内は暖か。優先座席手前の2人掛けのシートに陣を取ります。
10人ほど乗って9:22上諏訪発。次の下諏訪で対向の特急待ち合わせで4分、岡谷では追い付いてくる特急を待って10分停車です。3両目のお客は20人ほど。川岸、辰野を経ていよいよ飯田線に入ります。
(544M車内と諏訪湖)
② 辰野⇒(伊那谷)⇒飯田
宮木、伊那新町、羽場と停車して、通学生やお年寄りを拾って、また降ろしていきます。快晴で伊那谷は1月ながら春風駘蕩、土曜日の車内ものんびりしています。
伊那松島までに検札があり、IDカードは使えない、カードの場合は車掌に相談せよというアナウンスが繰り返し流れています。
(伊那谷と伊那松島機関区)
自動改札も無人駅が多くてなく、定期券の客が多いのでしょう。車掌が2~3分の駅ごとに車両最後尾から、50mほど走って集札、精算しています。安全確認にドアの開け閉め、車内精算と大変忙しそうです。伊那松島は機関区。古い213系電車(この春で引退)との列車交換があります。
(213系電車)
引き続き伊那谷を行きます。40‰のJR有数の急こう配で有名な沢渡ー赤木間で、住宅街から疎林に入ったと思ったら、フツーの速度でもう3分ほどで丘の上の赤木です。モーターがウンウンうなるわけでもなく、何だかスイスイいつの間にか登ってしまった感じ。現代の電車の威力です。
(ほぼ一直線に登るこの辺りかなあ)
赤木の次の宮田では7分停車。車掌さんが「ここから先、豊橋まで長時間停車はありません。自販機で飲み物などどうぞ」と言っています。よく知っているんですね~。好きで乗っていても、飲まず食わずで6時間ガンバル人がけっこういるのを見ているのでしょう。
(宮田駅で7分停車)
私は朝食をしっかり摂り、昼食のパンとポットのお茶はしっかり準備しました。544Mは飯田線走破列車の中でもとりわけ“高速”なので、駒ケ根や飯田など大きな駅でも食料仕入れ時間が取れないことが分かっているのです。
宮田では用を足します。次々駅の主要駅、駒ケ根は2分停車、ここからの中央アルプスは絶景です。木曽山脈の2800m級の山々。越えた向こうは木曽谷です。右に左に意外に回る飯田線の車窓の家々の合間に、白い尖塔が青空にクッキリ浮かび上がります。
(駒ケ根付近)
田切、大田切という駅も存在します。田切地形とは、扇状地の川が天竜川の河岸段丘を深く削って大河天竜川に合流し、より地形を複雑にする渓谷のこと。飯田線が天竜川に沿うには、鉄橋を架けさせるような谷めいた地形のことです。
(伊那谷の奥で目立つ)
「田んぼを鋭く切って、たぎるような急流を形成する」から田切というのでしょう。飯田盆地でも伊那谷でも、淡々と谷底を行くとは限らず、丘を越え勾配を克服し、谷を渡ってトンネルをくぐったり橋を架けたり、複雑な地形なのです。強力な電車で早くから電化されたのも分かります。蒸機列車では大変なのが、当時のヒトも分かっていたのです。
(この辺りが“田切”地形?)
③ 飯田⇒(飯田盆地)⇒天竜峡
市田、元善光寺あたりから、飯田盆地の景色です。天竜川のひときわ高い河岸段丘を行くので、飯田市も地域の拠点、予想外にデカい街なのが分かります。ヒトも多くなり、1分停車の飯田では伊那市や駒ケ根のようなヒトの乗り降りがあります。
飯田どまりの211系電車が停まっています。お昼時なのでヒトのいない時を狙ってパンをムシャムシャ。ポットのお茶と共に素早く胃に入れます。
(飯田駅211系と飯田盆地)
切石はかつて近所の(徒歩30分くらい)のホテルに泊まった時に利用したことがあります。大きな天竜川にそそぐ川があり、これも“田切”。湾曲した車両とのスキマの多い一本板ホームもあっという間に過ぎ、対照的な古い駅、鼎に停まって、飯田盆地をほぼ1周。天竜川が大きく近づいてきます。
(切石付近と梅畑)
伊那八幡で飯田線のクイーン特急「伊那路1号」と交換。豊橋と飯田を結ぶ特急「伊那路」は1日2往復です。これで飯田線の電車は、373系、313系、213系、211系とすべて見たことになりました。
時又は天竜川の「港」があったところ。昔は遠く浜松までの船便、今は和船下りの拠点です。広い河川敷で何か大会をやっています。だんだん人家が少なくなって、谷が狭まり、秘境気分が多くなってきたなと思ったら天竜峡。忙しかった車掌さん交代。
(広々とした天竜川と天竜峡駅)
④ 天竜峡⇒(天竜川)⇒東栄
天竜峡からは飯田線の真骨頂、秘境感がいやがうえにも高まります。ゴウとトンネルに入って、出てくると右に天竜川、左に断崖に挟まれたところを行くことになります。
鉄橋でまた田んぼのない狭い“田切”を渡り、落石覆いをくぐり、たまに広いところに集落が現れて停車する感じです。すっかり寂れた集落は秘境駅、平岡のような比較的大きい街は特急停車駅です。
交代した車掌さんがまた検札に来ます。車内は10人ほど。同好の士は青春18きっぷシーズンでないので見かけませんでしたが、ビジネスついで、移動ついでに話題の飯田線に乗ってやろうという飯田や天竜峡からのヒトは2人ほどいました。
地元の生活で乗るようなヒトはほとんどおらず、唐笠、田本、為栗、鶯巣、小和田で静岡県に入っても…乗降はありません。かろうじて平岡で登山のヒトが1人乗り込んできたぐらい。左窓は断崖ですが、断崖を登った向こうにも集落があるのでしょう。
(大きな平岡駅と集落)
大嵐と佐久間の間は長大トンネルで、昭和32年完成、高度成長のシンボルになった佐久間ダムの湖底に没した旧線の谷から、支流水窪川の谷に移ります。かつての水窪町も今は静岡県浜松市。過疎のせいか、向市場、城西、相月と人家は多いものの、乗降はありません。自然の景色の良いところはたいてい大都市連絡でもないとローカルはヒトが少ないのです。
しかし天竜の大河と、崖っぷちに点在する人家、それに湾曲する川や“田切”トンネルの織り成す景色の変化はどうだ!と思わせるこの辺りが飯田線の醍醐味です。トンネルをつくることができないような弱い地盤を避けるためにつくられた、対岸にわたらない橋梁、第6水窪川橋梁も渡ります。
(水窪の街と相月駅)
もと愛知県だった旧線を付け替えるモトになった、佐久間ダムの佐久間、中部天竜から愛知県に入って東栄に至るまでハイライトが続きます。天竜川とは日本最大級の発電所のある佐久間でおさらばです。
(佐久間の街と発電所)
⑤ 東栄⇒(豊川)⇒豊橋
山奥の静岡県浜松市を出て、愛知県北設楽郡東栄町に至ると、天竜川水系が尽きて、豊川水系で豊橋まで行きます。地元の人が乗ったり降りたりします。三河川合や本長篠などでも乗ってきて、車内は5分の入りになります。
三河川合からは鳳来峡の眺めがありますが、疎林に阻まれてあまり見えません。ここから人家も増えてきて、乗客も増え、景色もとりとめなくなってきます。
(東栄付近と製材工場)
長篠城からは豊川に沿って行きますが、豊川はほとんど見えません。日当たりよく、住みやすそうな河岸段丘の上をクネクネ行くのです。
私の前の4人掛け席には、カップルが2組座りました。1組はひそひそしゃべって、もう1組は押し黙っています。カップルに限らず、若い衆は電車の中で話の内容が分からないようにしゃべるのがうまいと、変なところで感心します。
(三河川合駅と213系)
新城では列車の遅れで10分も停まり、ちょっと降りてゆっくり体を伸ばします。新城までで15:33。もう一息です。その後は小さい駅でもヒトが乗ってきて、野田城あたりから豊橋平野で、豊川では通路まで一杯になります。
(新城・野田城・豊川)
最後の駅小坂井を出て、ようやく広々とした豊川を渡ると、通過した下地や船町も気づかず、16:16定刻に豊橋着。100人くらいも乗っていたでしょうか。名鉄に乗り換える人より、やっぱりJRで浜松方面が多い印象でした。豊川新城のヒトで名古屋に用がある人は、豊川から名鉄に乗るでしょう。
(豊橋着!吉田城)
席を移動して撮影したり、対向列車交換で、降りてちょっと体操したりすると、6時間54分も列車に乗っていても、その前に4時間各停に乗っていても、それほどお尻は痛くならないものです。この後吉田城を見て、電車も使わず1時間も歩いて投宿したぐらいです。宿のお風呂はあっちっち、十分疲れをいやすことができました。
<つづく>
いつだってある“時代閉塞”列伝
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まあとにかくいきづまったとか、停滞しているとか、現在の世相はマイナスイメージでいろいろな解釈がありますが、では世界は、日本は、時代は終わるのか?終わったのか?というとそうでもないんですね~。
なんだかんだ言って世の中続いていく。ヒトの「ついていけない妄想」があるだけで、小事件はあっても、戦争も血なまぐさいクーデターもなく、少なくとも日本は今日も全体に平和です。
それというのは「ああ行き詰った!もうだめだ!!」という時代閉塞の実感は、歴史上平和な時代や、華々しい歴史の出来事ののち、訪れるものだからです。
その「時代閉塞」の感覚を近現代史から拾ってみましょう。
1,田沼意知暗殺
18世紀後半、家康の天下統一から150年が過ぎ、政治経済すべてが爛熟した平和な田沼時代。鎖国状態ですから外圧はありません。トップが平気でわいろを取り、不況好況が移ろう、実に分かりやすい世の中に、天災に飢饉で、今日の物価高のように庶民の暮らしがじわじわと締め付けられてきました。
表面上は豊かな暮らしでも、真綿でジリジリ締められる感覚が「世の中一新」を望む空気を醸成しました。平和だが長続きしないような不安感が発達した、追いつめられる時代の“空気”が閉塞感の正体です。
そこで私怨と狂気を混ぜたような権力者の息子の暗殺です。人殺しなのに民衆は拍手喝采、新しい時代が開いたように思った心理が動きました。その後の松平定信の寛政の改革は、平和爛熟へのアンチとして支持されたものです。江戸期を通じて頻々と起きた打ちこわしも、強盗ながら、民衆には一服の清涼剤として受け入れられたものです。
(大河ドラマ“べらぼう”より)
2,大塩の乱
「寛政の改革」クリーン宰相松平定信の後、化政文化と将軍家斉のぜいたく時代が再び来ました。そこへ田沼時代のような飢饉が起き、同じようにコメ不足が起きて、今度は暗殺ではなく“最大の打ちこわし”が起きました。
大塩の乱はそういう閉塞感に触発されて「何とかしないと」と、行動にかられた幕府の役人(与力=裁判官)大塩平八郎の起こした反乱です。田沼時代は政府首脳の1人の暗殺だけで済みましたが、今度は与力という幕府の立派なお役人がコトを起こし、島原の乱以来の「大塩の乱」と名付けられました。
大砲まで用意しましたが、反乱は半日で片付き、大塩平八郎は死にました。この乱後老中水野忠邦は天保の改革を起こし、ぜいたくを戒め、倹約政策をしましたが、短期で挫折しました。バブルが極まった反動で何らかの戦乱が起き、倹約に入ってまたぜいたくになりかけるところに、ペリーがやってきたのです。
(蘭学の素養もあった平八郎)
3,ええじゃないかさわぎ
坂本竜馬暗殺の前後、江戸幕府も滅亡押し迫った1867年末、江戸の町を中心に天からお札が降ってきて慶事の前触れだ!やれ踊れと町の人々が踊り狂う現象が起こりました。ああ世も末だ、という閉塞感を持った人もいたでしょう。閉塞感そのものがすこぶる明るいところが特徴です。
思ったよりあっけなく倒れた江戸幕府滅亡の前触れだったでしょう。鳥羽・伏見の戦いから起こった戊辰戦争がこの直後始まり、明治維新になりました。大木が倒れて後どうするか?明治政府も頼りなく、治安も悪い時期がこの後長く続きました。
大政奉還は幕府の高等戦術、政治をやるにしても、またすぐに朝廷は幕府に何とかしてくれと泣きついてくるだろう、江戸の時代は続くだろうとタカをくくったところから、のんきな騒ぎが起こったかと思います。明治維新は決してすんなりと時代移動したわけではなかったのです。
4,日露戦争後の「時代閉塞」
日露戦争で大国ロシアに勝った!賠償金などは得られなかったものの、世界の大国の仲間入りを果たしたと、20世紀そうそう大盛り上がりでした。しかしその反動できた不況ですっかり盛り下がり、ただ工場などは国防生産で元気だったので、働け働けの大合唱で「みんな豊かに」社会主義への急速な傾きができてきました。
詩人石川啄木は新聞記者でもあり「時代閉塞の現状」を書き、国家万歳!と叫ぶ傾向に対立する個人の在り方を追求しました。若者がイキイキしていないのも、学校が就職予備校になっているのも、現在と同じです。
豊かであっても大国に勝っても、非常時より平和時の方がますますヒトは何かにすがりたいし、また集団から独立したくもある、そんな矛盾な近代のココロを初めて追求した詩人だから当時ブームになりました。
同じころ出た、夏目漱石「門」や柳田国男「遠野物語」は閉塞感から何らかの希望を見出そうとした作品です。国家主義から社会主義への風潮が閉塞感を生んだのです。
5,芥川龍之介「ぼんやりした不安」
第1次大戦後の不況は、関東大震災でとどめを刺され、復興して上向いてきたところ昭和恐慌、という感じですが、昭和2年の芥川龍之介の自殺の原因は、なんとなく盛り上がらず、なんとなく景気が悪い世間に対する「ぼんやりした不安」だったようです。
その後の歴史は大陸進出から、満州事変に戦前好況から日中戦争、大東亜戦争から焼け野原の日本へと突き進む怒涛の時代でしたが、龍之介の不安は世の中が下向きながらも平和だった証拠ではなかったでしょうか。ただその反面、この自殺を尊ぶ空気の“系譜”は戦後虚脱感の中にあった、太宰治に至るまで受け継がれました。
6,三島事件
いろいろな説があります。「いい気なもの」という論評から「集団諌死闘争」やら「坊っちゃんだ」やら「東映映画と同じ」とか。決して三島を嫌いではなかった時の首相でさえ「気が狂った」と言っていましたが、これも高度成長に浮かれた時代閉塞の感じを、大文学者が読み取って、行動に移したものではなかったでしょうか?龍之介の昭和初期より、田沼時代に似た明るい感じの閉塞感です。
高度成長真っただ中で、豊かさの享受で忙しく、天皇なんかどうでもいい、憲法など空気のようなもの、という明るい退屈な平和感を大文学者は厭ったように思います。それから半世紀余。平成、令和になってすっかり退屈感が払しょくさせたかというとそうでもない気がするのです。
これだけの「時代閉塞の実感」を並べて何が言いたいかというと…
〇歴史上「時代が終わった、閉塞した」ということは、多々あったが、それは当時の人間の感じ方というだけで、その都度時代はやっぱり動いていくもので、現実に日本人の未来もなくならないし、日本も沈まない。絶望するには当たらない。
ということです。豊かな「坂の上の雲」を得たら、カネも地位も名誉も得たら、なんだか燃え尽き症候群になってしまった、という人間個人の現象に過ぎないのです。
ああ退屈だが、時代の動きは確実に感じられる、しかし政府もヒトも何ら面白い動きはしない、そこで追いつめられたと感じた人は、反乱を起こしたり、テロを働いたりします。しかしヒト一人の想念などはるかに越した時代の流れは、人間がいる限り続くものです。
ナポレオンは言いました「戦争こそ通常状態である」平和だからこそクレイジーな状態が目立つもので、残忍に殺し合う闘争が人間の本質だということです。「万人の万人に対する闘争」の本質に相対して、博愛信頼の平和を続けようと努力し進歩する動きがあるのが、近現代史の面白いところです。
佐野政言や大塩平八郎、啄木、龍之介や三島由紀夫のような警世家の“英雄”は感受性が高いのです。それゆえに「何か行動を起こさなきゃ」と暴発するのです。我々庶民は平和に飽きずにささやかな1日1日の生を活かし、感謝し、学習し、飽き足らない感覚を抱かないように、不安に駆られて突拍子もない行動をしないようにしたいものです。
<完>






































































