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逝きたい女性に捧げる

題名を変えました。
逝きたい女性に捧げます!

性は哲学でもあり、、、、


しかし、それは、生きることそのもの。


とてつもなく大きな快楽でもあり、


無限に大きく深い哲学でもあり、


逆に、恥ずかしい下卑たものでもある。


問題なのは、自分の位置をどこに持ってくるのか?


常に大きく揺れて動いていいものと思う。


時に無限の快楽追求で、時に大きな哲学で、、、、、、





自分をさらけ出して、思い切りふしだらに、性をむさぼるのは、


その裏側にある、大きな哲学を同時に味わう事にも繋がる。


自分の遺伝子を残すための神聖な営みでもあるが、


はしたなく貪欲な、性欲の解放される、快楽だけのひと時でもある。





しかし、絶対に許されないのは、


自分の性のために、他の誰かの性を踏みにじること。




お互いの合意があって


性を楽しむ時は、自分をさらけだし、思う存分楽しんでいい。







性は哲学だ



多くの人々がそれに気づいている。



しかし、多くの思想、宗教、政治がその考えを封じ込めてきた。




性を罪悪視し、犯罪に仕立て上げてきた。


恥ずかしいことにしてしまい、直視しない。


一部の犯罪者や、不心得者のために、


更に性は悪い事として扱われてしまった。



そのおかげで、女性は男の次の性のように扱われてしまっている。


本来、男女平等のはずであるのに、


女性は男性より低く扱われている。



女は男の性の玩具にされている。



口では平等を唱えながらも、


宗教家も、教育家、哲学者、法律家、政治家、学者、


そういった者たちでさえ、表面では性を蔑み、隠し、


自分の性の楽しみの時は、女性を自分の性のオモチャにしている。




性の楽しみは生きる希望を与える。


心と体を解放させる。


困難に立ち向かう勇気を与える。



疲れ切った心と体を癒してくれる。




それにもかかわらず、


夫婦間で性を語り合える人が少ない。


対等に性の喜びを与えあうことができない人が多い。



性を楽しもう。


性の考え方を、改めよう。


男も女も平等に楽しもう。




結婚の相手や、恋人が、自分の性を満足させてくれないなら、


性の哲学を理解せず、対等の喜びを分かち合えることができないなら、


性の喜びを与える人を他に見つけてもいい。



なぜなら、性の喜びはそれだけ重要な事なのだ。


避妊や感染症の予防は当然すべきだが、


性を開放しよう。



間違った性の考えをやめよう。



心も体も、本当の性の喜びを求めている。



































恥の思い出


半世紀以上、俺は生きている。


そして、小学校時代の恥を引きずったまま・・・


その話を書こうと思う。


10歳くらいの頃のことだと思う。


小学校のクラスの中で、俺はどちらかというといじめられっこだったかもしれない
また、同時にいじめっ子だったかもしれない。


クラスの中にKという女の子がいた。


おとなしい性格の人だった。


たしか心臓が悪い人だった。


そのために、体育はいつも見学。


色は白かったが、美しい人ではなかった。


男子生徒たちはKの事を、カエルと呼んでいじめていた。


そのいじめは、しつこく繰り返された、


何日も何日も、繰り返す。


Kは毎日泣いていた。


そんないじめを、俺はひどく嫌った。


しかし、声に出して止めることができなかった。





Kが何をしたというのだ。


いじめをやめろ!


本当はそう言いたかった。


彼女の前に立ち、群れを成していじめる男子生徒からKを守りたいと思った・・・・・


しかし、実際は何もできなかった。


そんなことをしたら、Kと俺は愛し合っているとか、


そんな調子で、俺も一緒にいじめられるに決まっている・・・・・



毎日泣き続けるK・・・・・


俺はそれを見ながら、何もできなかった・・・・・



ある日、Kは転校していった。


男子生徒たちのいじめが原因で転校したと・・・そんなうわさを聞いたことがある。


俺はとうとうKをかばってやることができなかった。


Kが転校したのは、俺の責任であるに違いない。


それから、数十年、俺は自分を責めている。



弱い者をいじめる楽しさは、もしかすると動物の本能なのかもしれない。


野生動物は、異形の子供が生まれると、


よってたかっていじめ殺してしまうと聞いたことがある。


そのために、奇形児は野生動物の中では


決して成長することはないそうだ。


人間では、どうだろうか?




そんなことが許されるのだろうか?


人間はそんなことを許さないから、人間なのではないだろうか?


半でキャップのある者、弱い仲間を、かばい共存するからこそ、


人間と呼ぶのではないだろうか?


このブログで、男性から女性へのDVの事を時々取り上げる。


DVを許していい訳がない。





男は自分の性的な欲求を満たすため


また、自分の希望を通すためDVをする。



勝手に女が気持ちいいものと思い込んで、DVをする。


そんなことが、許されていい訳がない。


大人が、DVを平然と行う。


子供以下の・・・いや動物並の行動とさげすむ行為だ。




子供の頃、俺はKに何もしてあげられなかった。


かばう事の出来なかった俺は、いじめた子供たちと同罪だと思っている。


何もしないのは、それを許していることと同じだからだ。



今の社会のDV、これを許していたらケダモノだらけの未来がやってくる。


男が女に暴力をふるうのが問題視されない未来がやってくる。



このブログの男性読者は忘れないでほしい。


DVを許してはならない。



自分を人間と思うなら、身の回りのDVを許さないでほしい。


自分の欲求や楽しみのために、他の人間をいじめる行為は絶対に許されない。



とりわけ性の楽しみのその場面においてのDVは、


目的や内容が快楽の追求のため、行われるDVは陰惨なものだ。




食や性の行動は動物の本能に近いだけに、


そこにDVが持ち込まれると陰惨なものになる。




女によりよい快楽を与えるために、努力すべきであって、


DVは絶対に許してはならない。







俺はKになにもできなかった。


この過ちを繰り返して、生き続けたくない。








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