最高のアジア料理はここにあり 〜味覚編〜
これで3回目の来店となる「アジア料理AMAKARA(アマカラ)」
北海道の伊達市にあった頃には1回しか行っていないが、三重県に来て150キロ離れた静岡県にあるアマカラに3回も足を運んでいる。
この来店回数の違いには理由がある。私が料理に対する知識、意気込み、経験、興味、スキルなどの自分自身に対する能力の違いだ。
例えば普段和食中心の生活をしている人がいたとすると、その人は日本を代表する食事を経験として知っていることになる。
刺身、寿司、天ぷら、うなぎなど幼い頃から食べ慣れているものがその人にとって美味しい感じやすい食事となる。つまりは一定の安心感と、経験による安定がその人を喜ばせ、時には味の違いを感じさせる。
それがファーストフードであれ、イタリアンであれ、パン食であれ、基本的には感じ方は変わらない。
このハンバーガーが美味しい!ここのパスタは絶品だ!あそこのパン屋さんは一味違う。など、その人の経験による味覚は世界共通にあるものだと私は考える。
この常識を覆していくのが「食通」と言われる人になる。
数多くのジャンルに触れ、冒険心があり、そもそも食べることに最大の喜びを感じる層である。
この食通たちは一つのジャンルにとどまることを知らないため、新しいお店ができればそこへ行き、また新しい情報があればたとえ遠くともそこへ足を運ばせる。
日本には数多くの食通たちがいる。
そのため、日本には様々な国の料理が存在する。
それを自分流にアレンジするのもまた、日本独特な感性であるためこの国は世界有数の食通大国と言っても過言ではない。
これだけ多くの食通たちが小さな日本にいるのだから、それぞれの意見が違うことは避けられないことである。
流行りのお店に行く食通。ラーメンなど一つの料理に特化した食通。有名どころを一通り味わう食通。食べ物を含め雰囲気、特別感を味わう食通。別の国に足を運んで本場の味を楽しむ食通など一言で食通と言っても小さく分ければ数多くのジャンルがあることがわかる。
以前の私は料理に対する幅が狭かった。
最初に話したような和食中心の家庭で育ち、刺身には醤油、目玉焼きには醤油、サラダといえばトマトかキャベツで味付けはマヨネーズだった。幼い頃からそれで育ったためそれ以外は知らなかったのだ。
もちろんそれが美味しいと好む人は多くいる。
私も美味しいと食べていた記憶がある。
しかし、小学6年の頃、友人のお母さんが作る朝食に強烈なインパクトがあったのを今でも思い出す。
それは目玉焼きにソースがかかっていたことである。
その家では目玉焼きに醤油という概念はない。そもそも醤油かソースか選べるようにもなっていないからだ。
さらには食パンには切れ目が入っていて、そこにはバターが乗せられている。
マーガリンしか知らない私にとっては衝撃的なことであった。
この体験を色々な人に話すと、少なからずほとんどの人が「あ~わかるわ~」といわれる。
人の家のご飯は美味しいという記憶こそ食に対する冒険心になっているのではないかと私は思うのだが、それは人によって少し違いがあることがわかってきた。
自分の記憶がどこに位置付けられているかによって、今の味覚とつながることがわかった。
そもそも、自分の育った家庭が誰もが美味しいと頷くような料理であったとしても、また自分の家庭は毎日コンビニ弁当だったとしても、食べる人の気持ちによって頭の記憶は記録され、それでいいと思う人と、それじゃ嫌だと思う人に分かれるらしい。
そんな食べ物の話よりも別のことに興味を持つ人も多く存在するし、食べ物は好きだけど味付けの微妙な変化は気にしない人もいるのだ。
つまりは味覚というものは人それぞれでありながら、また別の角度によって共通認識が生まれるものである。
私の焼鳥を食べて美味い!という人が万国共通であるとしても、食べ慣れているはずの日本人が何も感じないということも起こりうるということを私は知らなければいけなかった。
よって「料理が美味しい!」だけでは経営難に陥ってしまう。この事が個人飲食店の最大の欠陥と言えると学んだのである。
静岡にある「アジア料理AMAKARA(アマカラ)」に行くと、毎回色々な学びを得ることができる。
例えばこの料理だ。
北海道の伊達市にあった頃には1回しか行っていないが、三重県に来て150キロ離れた静岡県にあるアマカラに3回も足を運んでいる。
この来店回数の違いには理由がある。私が料理に対する知識、意気込み、経験、興味、スキルなどの自分自身に対する能力の違いだ。
例えば普段和食中心の生活をしている人がいたとすると、その人は日本を代表する食事を経験として知っていることになる。
刺身、寿司、天ぷら、うなぎなど幼い頃から食べ慣れているものがその人にとって美味しい感じやすい食事となる。つまりは一定の安心感と、経験による安定がその人を喜ばせ、時には味の違いを感じさせる。
それがファーストフードであれ、イタリアンであれ、パン食であれ、基本的には感じ方は変わらない。
このハンバーガーが美味しい!ここのパスタは絶品だ!あそこのパン屋さんは一味違う。など、その人の経験による味覚は世界共通にあるものだと私は考える。
この常識を覆していくのが「食通」と言われる人になる。
数多くのジャンルに触れ、冒険心があり、そもそも食べることに最大の喜びを感じる層である。
この食通たちは一つのジャンルにとどまることを知らないため、新しいお店ができればそこへ行き、また新しい情報があればたとえ遠くともそこへ足を運ばせる。
日本には数多くの食通たちがいる。
そのため、日本には様々な国の料理が存在する。
それを自分流にアレンジするのもまた、日本独特な感性であるためこの国は世界有数の食通大国と言っても過言ではない。
これだけ多くの食通たちが小さな日本にいるのだから、それぞれの意見が違うことは避けられないことである。
流行りのお店に行く食通。ラーメンなど一つの料理に特化した食通。有名どころを一通り味わう食通。食べ物を含め雰囲気、特別感を味わう食通。別の国に足を運んで本場の味を楽しむ食通など一言で食通と言っても小さく分ければ数多くのジャンルがあることがわかる。
以前の私は料理に対する幅が狭かった。
最初に話したような和食中心の家庭で育ち、刺身には醤油、目玉焼きには醤油、サラダといえばトマトかキャベツで味付けはマヨネーズだった。幼い頃からそれで育ったためそれ以外は知らなかったのだ。
もちろんそれが美味しいと好む人は多くいる。
私も美味しいと食べていた記憶がある。
しかし、小学6年の頃、友人のお母さんが作る朝食に強烈なインパクトがあったのを今でも思い出す。
それは目玉焼きにソースがかかっていたことである。
その家では目玉焼きに醤油という概念はない。そもそも醤油かソースか選べるようにもなっていないからだ。
さらには食パンには切れ目が入っていて、そこにはバターが乗せられている。
マーガリンしか知らない私にとっては衝撃的なことであった。
この体験を色々な人に話すと、少なからずほとんどの人が「あ~わかるわ~」といわれる。
人の家のご飯は美味しいという記憶こそ食に対する冒険心になっているのではないかと私は思うのだが、それは人によって少し違いがあることがわかってきた。
自分の記憶がどこに位置付けられているかによって、今の味覚とつながることがわかった。
そもそも、自分の育った家庭が誰もが美味しいと頷くような料理であったとしても、また自分の家庭は毎日コンビニ弁当だったとしても、食べる人の気持ちによって頭の記憶は記録され、それでいいと思う人と、それじゃ嫌だと思う人に分かれるらしい。
そんな食べ物の話よりも別のことに興味を持つ人も多く存在するし、食べ物は好きだけど味付けの微妙な変化は気にしない人もいるのだ。
つまりは味覚というものは人それぞれでありながら、また別の角度によって共通認識が生まれるものである。
私の焼鳥を食べて美味い!という人が万国共通であるとしても、食べ慣れているはずの日本人が何も感じないということも起こりうるということを私は知らなければいけなかった。
よって「料理が美味しい!」だけでは経営難に陥ってしまう。この事が個人飲食店の最大の欠陥と言えると学んだのである。
静岡にある「アジア料理AMAKARA(アマカラ)」に行くと、毎回色々な学びを得ることができる。
例えばこの料理だ。
この日、お通しのような形で出てきたのは「太刀魚の稚魚」である。
桜海老の漁師をやっているアマカラ店主のこーちゃんが「偶然、網にかかったから作ってみたわ。」と言っていた。
太刀魚の稚魚に下味をつけて揚げ、そこにローレルと甘酸っぱく優しい味付けで衣に絡まっている。
私は太刀魚の稚魚を食べるのも初めてだし、それをお店の看板のごとくアジア料理に仕上げるセンスも素晴らしい。
この料理は日本に存在するどこのアジア料理店にもメニューとして置いていないだろう。
まさに茶道で言うならば一期一会の精神であり、私はそれを味わうことができるわずかに選ばれた人であったと喜んでしまう一皿であった。
つづく
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