ハッシーが、役者でなかったら…? | 劇団FREE SIZE ◆ OFFICIAL BLOG
こんにちは、橋倉靖彦です。

僕が役者になろうと決めたのは小学六年の時ですが、それまでは、学校の先生か刑事になりたいと思ってました。


当時放送されてたTVドラマで、水谷豊さんの「熱中時代 先生編」「熱中時代 刑事編」、西田敏行さんの「サンキュウ先生」、石原プロ制作の「太陽にほえろ!」「大都会PartIII」「西部警察」を真剣に見てたからです。


小学生ながら、当時マジで真剣に悩んでました。

教師と刑事の両方を職業に持つことはできないものか…と。



そんな時、そう…それが小学六年の12月でした…

その年、大ヒットしてた、寺尾聰さんの「ルビーの指環」。

西部警察で毎週見てたあの寺尾聰さん…

そんな時、テレビを見てて、
某、歌謡大賞番組で、案の定、寺尾聰さんが大賞を受賞しました…

そしたら、舞台袖から西部警察で共演してる役者さん達がお祝いに駆けつけ、皆に囲まれながら、全員でルビーの指環を歌いはじめました。

その光景を見た瞬間に、何かが僕の中をズキューーン!と通り過ぎました

その時、初めて、俳優という仕事があることを知りました。

そして、「そうだ!俳優なら、教師にもなれるし、刑事にもなれるし、いや、もっと言えば、自分以外の他人の人生を生きて体験することができる 」


僕は幼少の頃から、まぁ、家庭の事情で家族バラバラ、兄弟バラバラでそれぞれあっちこっちにあずけられて育ちました。
幼稚園の頃もいじめられてばかりでした。

小学生の頃も、大人しくて、赤面症で、人前に立ってものを言うということは出来ない子供でした。
授業中も、先生の問いに対する答えは分かっていても手を上げることは出来ない、影でひっそりと居る、暗い子供でした。
みんなみたいに、喋ったり、元気よくしたりしたいなぁーって、心の中では思ってました。

けど出来ませんでした。

自分が嫌いで、他人になりたい、自分以外の人になりたい…

そういう願望は常にありました。

だからでしょうね…今思うと、その頃から人のマネや田中邦衛さんのモノマネを、誰もいない所でやって、テープに撮って自分で聞いて楽しんでたの。
披露するわけではなく、一人でモノマネして一人で聞いて喜んでたわ、確か…笑


ところが、その小学六年の12月に寺尾聰さんがきっかけで俳優という仕事があることを知った瞬間から、一気にそれまでの悩みが解けました


これだ

と思いました

他人になれる!
嫌いなこの自分以外の人生を生きることができる!



後に、高校を卒業して役者になるため上京したわけですが、俳優という仕事を知れば知るほど、どんどん惹かれていきました。
19歳や20歳の頃、養成所に通ったりしてましたが、周りにいる同年代の人達は、

「有名になりたい、人気者になりたい、すぐに売れたい、芸能人になりたい、お金持ちになりたい…」

それを一番の目標にやってる人達がほとんどでしたが、それはそれでいいとは思うんですけど、僕は一人、考えが違うなぁって思ってました。

40代、50代、60代のおっさんになってテレビの画面に出てる自分をいつも想像してました。
そこを目標に18歳の時に上京し、20代を過ごし今までやってきてる自分があります。

「今は、自分が大好き 」
幼稚園の頃や小学生の頃、自分が嫌いって思ってましたけど、俳優という仕事(お金には全然なりませんが)をやってきたおかげで、そうはっきり思ってます!笑
それを教えてくれたこの俳優という職業。
感謝です。

自分が好きって言うとナルシストとかって言われるかもしれませんが、いいのよ!
だって、地球中、宇宙中探したって、この人は一人しかいないんだもん。こうゆう性格でこうゆう顔形で、こうゆうふうに生きてるこの人。この俺という生き物。
ダイヤモンドやプラチナより稀少価値あるべ。

ヤバっ!また長文になった

まあ、何はともあれ、みなさん、今後ともよろしくお願いします
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