私は、自分が死んだとき、葬式など必要ないと考えていました。
私が死んだあとに、わざわざ会場まで来場していただくなんて申し訳ないと思っていたからです。
しかし、その考え方は180度変わりました。
休日に知らない携帯番号から着信。
須田 「はい、須田です。」
Yおばちゃん 「あっ、須田?Yのおばちゃんやけど、Nのお母さんが亡くなったやわ。
今晩通夜やからおいで。」
えっ。
Nのお母さん。
私は、一度だけお会いしたことがあった方でした。
私は、毎年地元の祭りに出てます。
衣装を着て、横笛を吹いたり、太鼓を叩いたりします。
3年前、その衣装の着付けにNの家に行きました。
そのとき、満面の笑みで着つけてくれたのが、Nのお母さんです。
3年前といえば、私は21歳です。
Nのお母さんの前でパンツ姿になるのは、少し恥ずかしいものでした。
3年前にたった一度だけ見たあの笑顔を私は鮮明に覚えていました。
あの笑顔が簡単に消えてしまうものなのか。
私は、不思議な気分になりました。
また私の同級生Nの母です。自分の母が死んでしまってもおかしくないということです。
その夜、お葬式の会場に行きました。
お葬式に参加するのは、人生は初めてです。
案内されたところに行くと、Nさんのお母さんの写真が飾ってありました。
そしてふと下を見ると、お化粧を施されたNさんのお母さんが棺(ひつぎ)に納められておりました。
私は、人間の死体を見るのも初めてです。
先日、おくりびと(http://www.okuribito.jp/ )を鑑賞したところだったので、この棺に納められるまでの
過程が一気にフラッシュバックしました。
Nさんのお母さんの肉体はここにあるのに、死んでいる。
あのときは、笑って着付けてくれたのに、今は死んでいる。
これは、どういうことだ。
きっとまだ50歳くらいだったと思います。
そして、今はもう火葬されていて、残るのは骨だけです。
生きること。死ぬこと。
たった1度しか会ったことのない、Nのお母さん。
あれだけの思い出でも、私は深く深く人の”生と死”について、考えさせられました。
自分の死を意識したとき、自分の死に顔を見てもらうだけで、なにか気づいていただけるかもしれません。
私の死をもって、最後に誰かに何を伝える。 ことが、お葬式という場ではできるだなと実感しました。
ぜひ盛大に行いたいと思います。
生きること。死ぬこと。
1日だって1秒だって、無駄にできないのではないのでしょうか。
人生はいつだって最高です。
須田健太郎
