個々人が、ちゃんと自分をもっていて、他人を他人として、理解できなくても、否定しないという前提があれば、集団というのは、相互作用があり、お互いに、効果を発揮するとおもいます。一人が3倍頑張るより、3人が協力した方がはるかに力を得ます。
でも、集団形成の多くの場合、自分自身の孤独や不安を埋めるために、つながりを求め、結果として集団を形成します。
そこには、つながっている仲間意識という、集団心理が生まれます。
そして、ややもして、仲間意識は、他の集団との差別化、排他性を持ちます。
それは宗教でも、国家でも、学校のクラス内にできる仲良しグループでも。
有る意味、一人の人が他者との関係を築くときと同じです。自己確立をするということは、他人を他人として認める。自分ではない他者として存在を認めるということなのです。
お互い違う存在なのですから、相性はあるでしょう。他人を嫌うということは、私はさほどいけない事とは思いません。どんなにすばらしいことをしている人でも、万人から愛され尊敬されるとは限りません。恨みや妬みのような、ある種の八つ当たり的なキライもあります。自分の鏡としてみえてしまう時避けたくなると思います。
だから、「キライな人」という認識でその人の「存在を認めている」からです。わたしとは意見が違う人として、理解できないけど、そういう考えもあると認められるだけのものを持っているということです。
それがその人の底の深さ、奥行きというものだと思います。
第一全ての人に愛されるなんておこがましいです。色々な人たちが居て、同じようなことを言っていても、視点がちがったり、根源的なものがちがったりします。環境も受けてきた無意図的教育(時代規範や世間体、マスメディアによってなされます。幼児であれば両親の思想の影響も含まれます)も違います。
関わりのある他者に対して、一番してはいけないこと、それは存在の否定です。それは、その人の存在を殺しているといっても良いのです。言うならば存在の否定とは精神的にそのひとの存在を殺しているからです。
でも、悪人も犯罪者もいるではないか?確かにいます。それを常習としている人もいます。
お腹がすいているとき、他人の食べ物を盗むのは犯罪です。でも、それを取り締まる警察よりも、社会の仕組みや教育、無意図的な教育も含めてどこに問題があるとおもうのです。
少なくとも、西欧社会では、人を性善説的に考えていると思います。
だから、犯罪を犯した人に対して、目には目を、歯には歯を、死には死をという、ハムラビ法典のような、考え方ではなく、更生する場所として刑務所があり、処罰するために苦痛や恐怖で支配する(見せしめ)ではない方法がとられており、ヨーロッパではかなりの国々が死刑制度を廃止しています。
それは、国家による殺人であり、国家という集団が別の集団の存在を否定するとき、大規模な国家による殺人は戦争になります。
集団形成における自己確立について、こんな記事を書いたのは、昨日になってしまいますが、読者登録してくださったこの方 の「TEAM DORAMA」の集団としてのあり方、活動(特に、【2009年のDORAMA展開】)は相容れないとも思えるほどの多様性があって思い面白いなぁと、思うと同時に私の集団形成における自己確立の役割をかいてみました。
