阿部敏郎さんが「良かった」と言っていた映画「PERFECT DAYS」を観てきた。

ヴィムヴェンダース監督、役所広司主演で、ある男の日常が淡々と描かれていく中で、人間の本質的な在り方がとても静かに表現されているような内容だった。

 

主人公の平山は、公衆トイレの清掃員の仕事をしながら、今に在りながら生きている。

日々好きな音楽を聴き、本を読み、植物を愛で、朝日や木漏れ日を感じる。

仕事は手を抜かず、淡々と丁寧にこなす。

仕事が終わると銭湯に行き、いつもの店で一杯やる。

休日にはコインランドリーや写真店、古書店、行きつけの小料理屋に行く。

 

そんな日々を淡々と過ごす中、当然起きてくる出来事もあり、時に怒ったり、動揺したり、困惑したりする様子が、言葉には頼らずに表現されていて、とても良かった。

 

 

言ってみれば、平山の「今」だけが描かれていくような内容なのだけれど、だからこそ、その背後にはただ真実があり、そこに多くの言葉はいらないんだなと感じた。

 

平山は「どこかに向かう」ことから手を引いた男なのだと私は思う。

過去には見せかけの幸せを手にしては失うことを繰り返してきたのかもしれない。

 

そしてようやくたどり着いたのが、どこにも向かわないことで得られる平安…だったんじゃないだろうか。

そこにあるのは、耳を澄まさないと感じられないほどのとてもとても静かな喜び。

「今ここ」にある、生命の営み、息吹き、一瞬の輝き。

 

それは、ここではないどこかへ向かうことばかりに目を奪われている人達にはわからない、ちっぽけに思われるようなものかもしれない。

でも、そこにしか真実はないのだということに、平山は気がついているのだと思った。

 

この映画と、平山という男から私が受け取ったもの。

それはそういう本質的な在り方だった。

 

そして、映画の内容とは直接関係はないのだけれど、映画を観ているときに、「真我の視点」をすごく感じた。

 

この映画は淡々としているがゆえに、観ていて特に感情が湧いてくるわけではない。

なので、観察者の視点でニュートラルな状態で観ていた。

そしたら、

「ああ、真我はいつも個としての私をこんなふうにただ、眺めているのか…」という感覚になった。

 

よく、真我と自我の関係性?って

映画の観客(もしくはスクリーンそのもの)=真我

映し出される登場人物=自我

というふうに例えられたりするけれど、この映画ではそれがすごく感じられたのだ。

 

真我は 映画の中で起きることに一切の判断なく、どれも臨場感をもってただ体験しているだけなんだ、という感覚。

一方の自我さんは、これがフィクションという幻であることには気づかず(あるいは忘れ)、必死で もがいたり苦しんだりしながら演じている、ちょっとやっかいだけど憎めないヤツ。

 

この「PERFECT DAYS」は、色んな意味で観て良かったし、よりいっそう「今」が愛おしくなる映画だった。

 

大好きなルー・リードの同タイトルの曲が使われていたことも、観たいと思った動機だったんだけど(笑)。

以前に私が描いた、ルー・リードのヘタウマ画(?)。

        ↓ ↓

そう、どんな日常も、実は全てが「パーフェクト」なのだ。

(そうは思えないこともあけどね…苦笑)