自我に支配される人生からはもう降りよう、もうゼロに戻ろう、と決めたのだけれど。

それを試されるようなことが起きてきた。

 

まずやってきたのは、以前とは種類の違う感情が上がってきて、また涙が出るような現象が続いたこと。

それは虚しさや怒りのようなもの。

真実に触れ、幻であることを知った(見抜かれた)自我さんからの、

「今までの人生って何だったの?」という訴え。

 

そして一連の流れで、今さらながらに諸行無常の儚さを知り、そこから来るような虚しさがやってきたような感じもあった。

自我にとっての「良いこと」は長くは続かず、喜びと苦しみは常にセットであるという二元のルールを思い知らされたからだ。

 

でもそうした感情からあふれ出る涙は、あまり長くは続かず、ある程度そこに留まると通り過ぎていった。

 

そして次にやってきたのが、病気の症状の再発。

これは自我さんが最も大騒ぎすることだ。

 

これまでの私は、この症状を現わしている未完了な感情エネルギーと対峙してきた。

症状というのは、自分の中で見ないようにしてきたもの、まだ光が当たっていなかった部分が、症状という形で現れ出たものだからだ。

その未完了な感情エネルギーを見つめることは、どうしても通らざるを得ないプロセスだと私は感じてきた。

 

でも今回は、もうそこから次の段階に来たんだな、という気づきがあった。

 

これまでは薬を飲めば落ち着いていた症状が、今回はそうはいかないのだ。

当然、不安や恐怖が上がってくる。

感情に振り回されもする。

 

こんなこと、いつまで繰り返すんだろう?

結局、何も変わってなかったの?

自分に嫌気や怒りも湧いてくる。。

 

でも、その感情に振り回される自分は、本当の自分ではないのだ。

 

これまでは、その湧き上がってきた感情を感じて向き合うことが必要だったけれど、今はもう、その先へ行けるかどうかが試されているんだ、と感じた。

 

今、必要なプロセス。

それは、症状によって出てきた恐れや不安の感情に同一化している自我と距離を置くこと。
 

自我は実体がないがゆえに、常に何かに「同一化」することでその存在を証明しようとする。

その自我を超えていかなければ、本当の意味で痛みから解放されることはないんだな、と。

 

感情を「自分のもの」として、とことん向き合うプロセスを通過した後にやってくる気づき。

それは、感情は本当の自分のものではなかった、ということ。

 

それを自分だとみなしてしていたことが苦しみを生み、大いなる存在としての自分を見えなくしていたのだから。

 

今必要なのは、大いなる存在の意識で思考や感情をただ観察すること。

自我を超えていくこと。

どうやら、そんな段階にいるようだ。

 

症状、どうなるんだろう…という恐怖と不安はもちろんあるけれど。

ここを超えていけるかどうかが、試されている?のかもしれない。