「待つ」ということを楽しめるようになったら、どれだけラクだろう。

 

それができるか否かは、

そこに信頼があるかどうか。

この違いだと思う。

 

少し前、youtubeでエイブラハムの教えをわかりやすく伝えてくれている”こうちゃん”という方の動画を見つけた。

それを見て、今さらながらにエイブラハムの教えは自分にはとてもしっくり来るなと感じた。

 

かなりざっくりいうと、自分の望みというのは、既にヴォルテックス(波動の現実)の中に用意されているので、あとはただ、日常の中で本来の自分の波動(喜びや調和や心地良い状態)に一致していくことで、現実でも自然にその望みが展開していく、というものだ。

 

川の流れに身を任せるように、日々ゆっくりと心地良い状態でいれば、自然とそのうち何かをしたくなる「衝動」が来るという。

最初はとてもゆっくりな川の流れも、だんだんと勢いを増していき、自然に流れ着いた下流の先に望む現実が待っている。

 

だから無理に「何かしなければ」などと思う必要などない、というこの考え方は、私にとってはとてもしっくりくる。

 

表現の仕方こそ違えど、これに関しては私の大好きな津留晃一さんも同じことをおっしゃっていた。

 

「何もしなくても良い」。

 

でもだからといって、ずっと何もしないということではない。

必要なときに、必要なアイディアや衝動が起こってきて、

「自然」に「無理なく」行動していて、

そして気が付いたら望む現実を創造している、という流れ。

 

これは真理だと感じるので、自分の中で採用することにしている。

 

 

なんだかずっと何もしたくなくなっている最近の私。

昨年(2021年)の冬至から感じていた目覚めの流れに乗っていく感じは、

一体どこへ行ってしまったのだろう(苦笑)。

 

行きつ戻りつ…。

目覚めへの道は、これを繰り返しながらなのだろうか?

 

今は流れているのかどうかすらよくわからない川の中にいる。

流れが勢いを増してくるのをただ待つ時間。

 

それは、とても長く感じる。

 

その「待つ」という時間を楽しめるようになりたいけれど、

「何かしなければ」という自我の考えに、時にせっつかれる。

 

流れに逆らわず、自然に流れ着いた先に、望む現実が待っている。

そのことを何の疑いもなく信頼できたとき、川の流れは勢いを増していくのだろうか。