すべてがマル、ということ。 | アジアご飯、とくにマレーシアご飯、時々つぶやき

アジアご飯、とくにマレーシアご飯、時々つぶやき

2005年から2009年までの4年間、常夏のマレーシアで暮らしていました。2年過ぎた今でも、日本食は「ハレ」の料理でちょっぴりよそよそしく、アジア飯のほうが「ケ=日常」のご飯で、ホッとします。私にとっての食とは、味わいながら、みんなとつながることです。

先週末、はじめて体感した。その感覚は、突然すっと心のなかに降ってきた。それは、世界が、植物が、人間が、人間が作り出したモノたちも含めて、すべてが完璧な存在なんだ、という実感。

 

田口ランディさんの言葉を借りるなら、それは、そこに「ジャスト」に存在していることだった。窓の向こうに生えている木々も、部屋の中に飾られている薫り高いプルメリアの花も、トイレの横の池で泳ぐナマズも、隣で寝息を立てながら寝ている彼も。そこにいることがとっても自然で、完璧で、まるでそこにいるために、生まれてきたみたいだった。

 

そして、その中に含まれていたわたしも、マルだった。疑いようもない、完璧なマルだった。

 

形でいえば、そのマルは決して、まんまるじゃないんだ。

ぽこっとへこんだり、ごつごつ飛び出たり、かっこ悪くて、かなりぶさいく。幼いころに読んだお姫様物語のハッピーエンドとは程遠い、変形したカタチ。

 

でもこれが、完璧ってことなんだ。マルってことなんだ。

マルって、人によって違うんです。変形しているからこそ、あなたのマルなんです。

 

でも…。なんてことだろ。この時から、考えていることも、想っていることも、願っていることも、感じていることも、愛していることも、まったく変わってないわたしなのに、今日はまたマルの感覚を忘れてしまっている。たった1日たっただけなのに、もううまく言葉にできない。