決断のとき。 | アジアご飯、とくにマレーシアご飯、時々つぶやき

アジアご飯、とくにマレーシアご飯、時々つぶやき

2005年から2009年までの4年間、常夏のマレーシアで暮らしていました。2年過ぎた今でも、日本食は「ハレ」の料理でちょっぴりよそよそしく、アジア飯のほうが「ケ=日常」のご飯で、ホッとします。私にとっての食とは、味わいながら、みんなとつながることです。


2~3年に1度くらいだろうか。
大きな決断を迫られるときがある気がする。

それは人によって違う。
結婚かもしれないし
腐れ縁の恋人との別れかもしれないし
楽しかった友人と離れることかもしれないし
他人からみれば自分勝手に思われることかもしれない。

もちろん、朝ごはんを何にするか、何時に家を出るか、
夜お風呂を溜めるか、そんな小さなことを入れれば
わたしたちの毎日は決断の連続なんだけども、
ありったけのエネルギーをふり絞って「よし決めるぞ!」
というときが、必ず2年に1度くらいは訪れる気がする。

結論を言ってしまうと、
そういうときマイナスの決断をしようとも、
プラスの決断をしようとも、
どちらも、ちゃんと一番いい方法を選んでいる。
周りから言われた、という理由ではなく、
自分の責任で決めた!と公言できるのであれば、
間違いなく、自分にとってベストな方法を選んでいる。
わたしたちはそういう力を自然と備えている。

ここで、大切なのは、悩んで悩んで悩みぬくことだ。
心に何度も問いかけ、自分の本心を探り出し、
周りのことを考え、自分の立場をついて思いを馳せる。
同時に友人の生き方についても検証してみる。
そういう過程こそが、大切なのだと思う。
極端にいってしまうと、その過程を経験させるために
大きな決断チャンスは訪れるわけで、
実際に決断そのものは、あまり重要性がないようにも思う。

そこでだ。
わたしが大きな決断をするときに、いちばん重要視しているのは
“ときの流れ”である。

なにか大きな決断をしようとするとき、
息をこらして、周りをうかがってみると、
必ずと言っていいほど、ヒントが隠れている。

それは友人の言葉の中かもしれないし
家族の話のなかかもしれないし
上司からのダメだしのなかかもしれない。
ふと沸いてきた自分の思いかもしれない。

そうやって、神さまはわたしたちにヒントを与えてくれる。
大切なことを気づかせてくれる。
そうして、わたしはひとりで生きているのではないことを実感する。

決断のときというのは、そういう瞬間のことである。