無力感からの脱出。 | アジアご飯、とくにマレーシアご飯、時々つぶやき

アジアご飯、とくにマレーシアご飯、時々つぶやき

2005年から2009年までの4年間、常夏のマレーシアで暮らしていました。2年過ぎた今でも、日本食は「ハレ」の料理でちょっぴりよそよそしく、アジア飯のほうが「ケ=日常」のご飯で、ホッとします。私にとっての食とは、味わいながら、みんなとつながることです。


金曜日のブログの続き。
ズバリ、赤ちゃんを授かる年齢について。
「すぐに浮かんだのは、37歳だね」
おいおい、37歳かよ。
まだまだ(ある意味では、すぐだけど)、やん。
もうかなりのマダムではない?
わたしがひとりっ子なので、ブラザーシスターを
作ってあげたかったのに、ちと難しくない?

彼女は続ける。
「大丈夫。必ずできるから、それまで存分に自分に
 手をかけてあげたら」
「いやー、もうずい分、自分中心に生きてきたから
 そろそろサポート役でもいいかな、と思ってるんだけど」
「うーん、心の中はまだ足りないって」

“心”っちゅうモンは、なんともやっかいなもんだ。
頭で理解しようとしても、とうてい無理。
社会的にみて、将来を考えて、体調を考えて、
これがいいことだな、ときちんと考えても
勝手気ままに、それは違う!と叫んでくる。
ほんで「理由はなに?」と聞いても
「そんなものは、分からん!」と能天気。

ふー、やっかいだぜ。
自分の心なのに、よく分からない。
友人に聞いてみる。

「なにをすれば、自分の心を可愛がってあげられるの?」
「心のなかの思いを、誰かに伝えることじゃないかな」
友人いわく、幼い頃わたしは子供らしい子供じゃなかったそうだ。
そのときに溜めていた思いが、まだ心のなかに残っているらしい。

そういえば……、と思い出す。

以前、何かの機械で体調を見てもらったとき、
おもしろそうだからと、“自分が抱えているトラウマ”という
テストもやってみた。
すると、はじめに現れた言葉は、
『無力感』だった。

無力感?
こんなに元気で、ネアカで、深く考えないタイプのわたしが?
友人もいて、楽しく暮らしているのにわたしが?
無力感という響きは、わたしとは対極にあるくらいの遠い存在に思えた。

でもたしかに……、とふとつながってくる。

幼い頃、いろんな意味で気を遣っていたわたし。
その思いが、自分の無力を思い知ることになっていたのかもしれない。

わたしがいても、現実は変わらない。
わたしがいても、どうにもならないことがある。
わたしには、大して力がない。
幼い頃、そんなふうに心が記憶したのかもしれない。

それは、母や祖母の育て方の問題というわけではない。
ほかの子と比べて、わたしがとくに辛い体験をしてきたという
わけでもない。
幼少のときの、心の揺れ。
その揺れによって植えつけられた“心の癖”なのだ。

この心の癖というのは、きっと誰もがもっているものだと思う。
きっと誰もが抱えて生きていると思う。
それがわたしの場合、きっと「無力感」なんだと思う。

このブログやHPに、
「今までいかに自分が何もできない、と思っていたことか。
 そうじゃないのに」
と、何度も何度も書くのは、わたしがそれを払拭したいからだ。
「ひとりひとりの体験は、とても貴重なもの」
と、書くのは、わたしがそう思いたいからだ。
くり返し同じテーマを書くのは、
そのテーマをわたしが理解できていないから。
何度も何度も伝えたい相手は、間違いなく、自分なんだ。

とにかくわたしは、無力という心の癖を解消するために
これから毎日を過ごそうと思う。

せっかく今という時間を与えもらったのだから
一日一日を大切に過ごそうと思う。