英語のレッスンを受けてみた。
あぁ~。まっつたく!話せんかった……。
仕事柄、知らない人と話すことは日常茶飯事だし
趣味のごとく大好きだから、
アメリカ人の先生とも、いっぱい「話し」をしたかった。
ヨガを習っている。
サイン・ラングウェッジが好きだ。
テニスをしたいのだけど、東京はコート代が高い――。
など、思いつけども、言葉が出ない。
えっと、えっと、、、と考えていると、
次の話題に移ってしまって、すんごく消化不良な会話だった。
「自分の思っていることを言葉でいえるって
実はすごいことなんですよね」
スタッフの方の言葉に、
ブンブンとすごい勢いで首を縦にふった。
手話で会話をしているとき。
どうして会話が続かない人がいるんだろう、
と不思議に思っていたけれども、
その人たちの気持ちがよーく分かった。
わたしは、人と話すことが大好きで、
それがゆえに、
「ことば」をイマイチ信用していない。
「ことば」無しで、ビビビッと通じ合うことができたら
どんなに素敵だろうと毎日思っている。
「ことば」の限界、という境界線の前に、
しょっちゅう、ぼう然と立ち尽くしている。
でも、「ことば」は
個人の記憶や思い出、国の文化や習慣、などを
共有化していない人どうしが意思疎通をするためには、
とても有効な手段なのだ。
とても効果のある“記号”なんだ。
「ことば」という記号が無ければ、
相手の気持ちを理解するのに、大量の時間と労力がかかる。
それは残念だけど、もう、現代の時間の流れには合わない。
以前、『言葉のない世界に生きた男』という本を読んだ。
それは、耳が聞こえないために、
言葉だけでなく、言葉という概念さえも持っていなかった
メキシコの青年の話しだった。
彼は、「言葉」を知らなかったので、
時間(過去・未来)という概念、地図という世界観、自分の名前、
さらに、自分の耳が聞こえないということさえも、
知らなかった。
彼は、聞こえる世界のなかでは、孤立していた。
必死で学ぼうとしても、何を学べばいいのかが、分からなかった。
しかし仲間内では、
とても豊かなコミュニケーション手段を持っていた。
時間という感覚がないので、すべて現在形。
名前がないので、「最近母親と死別した男」という見分け方。
すべて「マイム」(パントマイム)で語られ、
たとえ自分以外の人について話すときでも、
話し手がいつも、舞台の中心にいた。
そこでは、みんなが、同じ記憶を持っていて、
そのなかでコミュニケーションが成り立っていた。
彼が、豊かなマイムでコミュニケーションを取っているとき、
とてもエキサイティングで、素敵だった、と著者はいう。
たぶん、「ことば」というものはそういうものなんだ。
概念をつかさどるものであり、
同時に、世界観を押し付けるもの。
知らない人を結びつけるコミュニケーションの方法でありながらも、
豊かな心の交流を阻害し、
個人というカラフルな色を統一化してしまうもの。
わたしが
「ことば」を学びたいのは、
「ことば」に支配されないために、
「ことば」を操っていきたいから。
そんなことを思った。