またまた、べてるのシンポジウムで感じたことを書きたい。
なぜ、べてるメンバーの話は、私の心をうつのだろう。
なぜ、精神病をかかえている彼らの言葉は、
真実をついているように思えるのだろう。
答えは簡単だ。
それは彼らが実際に感じたことだから。
体験者の声は、どんな言葉よりも重い。
たとえ「こんなデータがある」「こんな違った例がある」
といったとしても
「そうかもしれないけど、私はこうだった」
といってしまえば、すべてを覆せる。
「私はこうだった」という言葉は、絶対的な価値をもつ。
と、わたしは思う。
それに比べて「研究結果」や「統計」というものは、もろい。
ひとつの異なる例だけで、崩れさる。
だから、分かろうとしない人に、
納得させようとするのはムリなのだ。
100万の事例で証明できても、1つの変わった事例だけで
カンタンに壊れてしまうから。
シンポジウムのなかで
“データ”は、「伝達可能な知」という名称で語られていた。
この「伝達可能な知」の“存在価値”と“危うさ”の2面性に
ドキッとする。
そんなことを掲示板に書きこんだら、
こんな発言をくれた人がいた。
<何か責任問題になった時に
“あくまでもデータですから(私のせいではない)”と
逃げるのでは?なんて思いました☆>
そうだ。データから感じる客観的であるという名のもとの逃げ。
それに対して、体験は逃げられない。
「私はこうだった」という言葉に逃げはない。
思い込みでも
ほかの人には分からない内容でも
個性的な発言でも
「私は」と発言する人の潔さと、責任感に感服する。
そして、大好きになる。
どんな些細なことでも、平凡なことでも
「私は」と語れる人でありたいと思う。