時をかける少女のように -4ページ目

時をかける少女のように

なんとなく生きることも良しとします。

とりあえず一週間続いた。
また一週間続ける。




人の価値観の違いがあることは当たり前。
なのに、先日決定的な違いを目の当たりにして、不思議なもんだなあと面白く思った。


わたしの旦那が大好きで買っている漫画の良さが、全く理解できないのだ。
旦那がその漫画を購入してとても満足そうなので、何も文句は感じないし、こんなふうに違いを目の当たりにして楽しむこともできている。

あなたは、そんなに自分にはヒットしないな、と思う作品が、他者にとってはものすごくヒットしているのを実感したことってある?

今回「面白いなー」と思ったので、せっかくだから詳しくそのことについて、考えてみたい。



まず、その漫画が自分的にいいなと思ったところと、自分的にヒットしなかったところをまとめてみる。

いいなと思ったところは、絵が綺麗なところ。
綺麗なのに、それだけではなく、ギャグシーンのデフォルメはかわいらしい。

逆にヒットしなかったところは、ストーリーだ。


小説が読まれるときには、その表現手段である文章の力とストーリーの二面を求められるのと似ていて、漫画は画力とストーリーの二面が求められる。
求める人によってその二面の比重は違うだろう。
考えてみると、わたしはおそらくストーリーを重視するタイプなのかも。

あなたはどっち派?
完全にどっち派! とは決められなくても、8:2でこっち、とか6:4でこっち! とかあるんじゃないかと思う。

で、面白いのは、「だったら、わたしの旦那は絵を重視しているのか?」と思いきや、絵にはよっぽど自分に合わない絵柄以外、そこまでこだわりがないということ。
そして、わたしにとっては全くワクワクしないストーリーだったけど、旦那にとってはどハマりだったらしい。


じゃあ、わたしにとってはどうしてこのストーリーがヒットしなかったのか。
それは、主人公が最強で、自分より力のない人をどこかバカにしているように感じられたからかもしれない。

でも、自分の目からはそう見えるだけで、他の人から見れば「そんなことないじゃん!」となるかもしれない。
実は、わたしが普段から自分よりも能力の無いと判断した人をバカにしやすいから、知らず知らずのうちにそんなふうに見えているだけって可能性もある。

実際、わたしの旦那は、わたしの目から見る限りでは、人の能力で上下を決めたり、相手を見下したりするようなことはしない。
自分の中で、それが当たり前になっているからこそ、より意識して見られるってことはありそうだ。


あと、あまり深い思考がなく話が進んでいくのも、ヒットしなかった理由のひとつかもしれない。
ゲームで言うと、勝ちの決まっている格闘ゲーム?
いや、わたしはゲームをしない人間だから、ゲームで例えるのが良くなかったかもしれない。
とにかく、何の葛藤もなく、淡々と進んでいく感じだ。
こう言うと、格闘ゲームを悪く言っているみたいだけど、そんなつもりは全くない。
ただ、わたしが格闘ゲームを知らないだけかもしれないし、もしかしたら思考とかは関係なく、戦うことを純粋に楽しみにしている人もいるかもしれない。


そう、なんというかこの漫画、そういうイメージだった。
こうやって、ヒットしなかった作品だけを分析するのもなんだから、明日はヒットした作品について考えてみようかな。

とりあえず、もう寝よう。
昨日言っていた計画性について、ネットで調べた情報を元に考えていきたい。

何かを学習するとき、「まあまあ良い」レベルまでなら20時間で到達できるらしい。
不器用なわたしは、大体その倍の40時間ってとこかな。
これは、上達の具合を学習曲線で考えたときのおおよその見込み時間みたい。

で、最初はぐんぐんと上達していくけど、ある時点でだんだん上達するのが困難になってくる。
そこからさらに次のステージへ進むには、壁が立ちふさがっているってイメージなんだろう。
この、なかなか進まない状態のことを「プラトー(高原状態)」と言うようだ。
どうして高原かというと、それは書かれていなかった。
気になる。
でも調べようがない。
もしかして、学習曲線が上り坂から落ち着いて、ひろーい高原みたいになるからかな。
まあ、名称なんてどうでもいいんだけど。

問題は、いかにその20時間を使うか、だ。
何も感変えずに20時間を作業に費やすのは賢くないやり方、と書かれてあった。
じゃあ、賢いやり方は何かというと、「スキルを小さく分解して練習する」ことだ。

わたしがやりたいのは、小説や物語で、自分のもやもやした気持ちやどうなん?って気持ち、めっちゃくちゃ感動した気持ちや面白かった気持ち、いろんな感情をたくさんの人に伝えて共感してもらうってことだ。
たぶん、だけど。
だから、物語や小説を書くスキルを小さく分解して練習していく必要があるのだろう。

そんなに分割できるもんなのかな、と思って調べてみると、これまたネットで見つかった。
ほんと、ネットって何でもある。

物語や小説を書くために必要なスキルは、5つあるそうだ。

1 語彙力
2 知識
3 表現力
4 構成力
5 哲学

1~4の力をつけるためには、単純に本をたくさん読め、と書かれてあった。
5はすぐにどうこうできる話でもないけど、いろんな物事に対しての自分の意見を持つこと。その意見を人に表現し続けることが良いらしい。
わたしは、あなたに毎日思ったことをこうしてブログで伝えているし、これがその役割を果たせそうだ。
哲学と言えるほど大層なものじゃないけど、自分の考えを表明してるし、いいよね?

でも、1~4についての効率良い力の付け方には、諸説あるみたいで、非常に厄介だ。
たくさんの本を読め、と主張する人も居れば、そんなのはいいからとにかく書けって主張する人もいる。

あなたはどっちだと思う?
他者から学ぶことが必要か。
それとも、とにかくオリジナルでいいから書く時間を増やす。
なかなか苦悩させられる案件……。

計画性のないわたしなら、こういうとき、悩んでいるのはもったいないし、とにかく書くか読む! その時間を増やせばいいんでしょ! って突き進んでしまう。
けど、それではやることが定まらないままだし、時間を有効に使うためには、ちゃんと計画を練らないといけないって書いてあったしなあ。
うーん。
まずい。考えているうちに、どうでもよくなってきてしまう。

ここはひとつ、ソースの確かさから判断することにしよう。
この方法が自分に合っているかどうかは、1ヶ月もすれば判断できるだろうから、1月の終わりごろにもう一度振り返って考えることにして。
後者の「とにかく書けよ」理論は、森博嗣さんという小説家の方が著書で言っていることらしいだから、そちらを採用してみる。

一日に必ず「小説」「物語」を書く時間をとること。
これを意識して毎日を送ることにする。

誰かのために自分しか持ち得ない力を使いたい。
それは、自分が必要な存在だと実感したいからだと思う。

だから、例えば、その力が自分の力じゃなくてもいい、代わりのきくものだったら、わたしは居ても居なくてもいい存在ってことになる。
そうじゃなくて、わたしという存在が必要とされる力の使い方はできないのだろうか。
そんな考えが、いくら捨てても捨てきれない。

この考え方、つまり「何者かになりたい」ってことなんだろうけど。
そんなの無理だって、嫌というほどに分かっていても、心の奥底のどこかで「何者かになりたい」がもやもやと渦巻いている気がする。
だからこそ悩むし、だからこそ苦しいんだろうな。


あなたは「何者かになりたい」という気持ちがある?
もしくは、「自分が必要な存在だと実感したい」って気持ち。

これが全くと言っていいほど無い人もいるみたい。
もしくは完全に諦めることができた人かもしれないけど。
そうなれたら。
全てもやもやを手放せたら、今ほど悩まずに生きていけるのになあ。
ああ、考えていると余計に辛くなる。

でも、あなたにこうして話すときには、自分の嫌な部分や辛い部分もちゃんと話していこうって決めたから、これについて考えてみようと思う。

そもそも、何が辛いって、「何者かになりたい」気持ちと「いい加減現実を見たらそれは無理だって分かるでしょ」って気持ちがせめぎ合うのがめちゃくちゃ辛い。

分かっている。
自分が出来ることは、必ず他人にも出来る。
だからこそ、自分が必要な存在だと実感することが難しい。

それに、自分にしかできないことは、自分探しの旅でインドへ出かけました!みたいなことで見つかるものでもないと思う。
たぶん、自分にしかできないことは、どこかに転がっているんじゃなくて、自分自身で作るものなんだ。
分かっているからこそ、余計に辛い。

自分にしかできないことは、作るのに沢山の時間を要するらしい。
大体、それは5年間くらいだって聞いたことがある。
時間にすると、1万時間。
子どもの頃から、なんでもいい。何か好きなことを1つでも、1万時間続けてやってきたことがあるかというと、そんなことはひとつとしてない。
わたしは飽きっぽいからだ。

しかも、わたしは不器用ときている。
1万時間じゃ足りるわけがない。
どう考えても、倍の2万時間か、それ以上は必要だ。
そうすると、10年間以上。
……気が遠くなってくる。


何かもっと良い方法はないものか、とネットで検索してみた。
この「プロレベルになるには1万時間(5年間)必要」理論は、フロリダ州大学のK.アンダーネス・エリクソン博士という人が考案したらしい。
さらにあやふやだったわたしの情報を詳しくするならば、1万時間とは言え、その時間の使い方はより計画的であればあるほど良いと書いてあった。
あながち、わたしが2万時間以上と言ったのは間違っていなかったってことだ。
わたしは、計画性が0だから。

じゃあ、計画をすればわたしにも可能性はあるってことだろうか。
ほら、こんなふうに期待をするから、いくら否定しても心の奥底で「何者かになれるんじゃない?」のもやもやが渦巻くことになる。

まあ、せっかくだから、明日にでも、その計画っていうのをちゃんと考えてみよう。
せっかく毎日あなたに話しにくるんだから、話題もできて一石二鳥。
万々歳だ。

では、今日はそんなところで。
友人が子供を授かった。
今、彼女のお腹の中には、5ヶ月目の胎児がいる。
小学校の頃の同級生には、もう子供が生まれて小学校に入学した人もいる。
不思議な感覚。
人はいつから母親になるんだろう。
そもそも、母親になるためには特別な人格がなければいけないのだろうか。
そうじゃなければダメな母親になってしまうのだろうか。

あなたには子供がいる?
もしいるとして、その子供に対して、親らしい振る舞いをしたな、と思うことってある?

わたしにも子供が生まれたり、育てたり、そんなイベントが待っているとしたら。
果たして大丈夫なんだろうか。
親になってみたところを妄想してみると、わたしはまるで親らしくない。
まず、かっこよくないし、尊敬もできない。

ちなみに、わたしがかっこいいな、と思う親は、今言った正反対で、かっこよくて尊敬ができるイメージがある。
残念なことに、わたしがいつの日か親になるそのときに、これが実現できているとは、あまり思えない。
でも、望みを捨てずにできるだけやってみるならば、今からどんなことができるだろう。

かっこよくて尊敬ができる人間になるためには、まず人に対して誠実であることが必要だと思う。
人に対して誠実な人はかっこいい。
今のわたしは、すぐに人間関係が面倒になって人との関係を切りたがる自己中心的な性格だから、誠実とは程遠い。
次こそは絶対に関係を切らないように気をつけよう、と思っていても人から遠ざかってしまう。
人と価値観が合わなくて喧嘩するくらいなら、遠ざかればいいと思っているからだ。

でも、そう思うのとは裏腹に、価値観が合わないときに行き着く先が喧嘩だけではないということも知っている。
価値観の違う相手も受けとめて折り合いをつけていく、という終着点だってあるのだ。

じゃあどうして、その「折り合いをつける」ことをしないのか。
それは、「折り合いをつける」ことが、わたしにとってはとても難しいことだからだ。
幼い頃から、折り合いをつける訓練でもしていれば慣れているのかもしれないけど、そんなこともない。
どうやって折り合いをつければいいのか、その方法もよく分かっていない。
ただ相手に流されるのとは違う。
自分の意見と相手の意見の折り合い点を見つけ出して、そこに着地をするのだ。

折り合いが必要とされるのは、人間関係だけではない。
自分と仕事。
自分と生活。
人は、自分に関わるあらゆるものと折り合いをつけていきながら、生きている。

「自分が全面的に我慢する」でもなく、「対象となるものが全面的に我慢する」でもなく、「互いに少しずつ我慢する」。
今のわたしが、母親になるまでに出来ることは、何かの選択に迫られたときや問題に対して行動を起こすとき、これを思い返して客観的に物事を見ることかもしれない。
これは、「互いに少しずつ我慢する」選択になっているのか?と。


わたしは、人のために自分の力やお金を使うことが、自分にとってマイナスだと思っている節がある。
自分の持ちうるものを他人に奪われてはならないって思っているんだと思う。

いろんな小説や漫画を読んだり、人と関わっていく中で気付いたんだけど、この「他人に所有物を奪われたくない」って考え方は、短期的には得。でも、長期的には損をする考え方だ。
短期的な得を取ると、その瞬間瞬間では自分が楽でいられる。
ただし、人との繋がりを得ることはできない。
人の幸せは、他人との繋がりで感じられるものだから、つまり、そこが得られなければいつまでたっても幸せにはなれないってことになる。

わたしは短期的な得を選んで行き続けてきた。
その結果、人との繋がりを得ることができなかったんだと思う。
もしもこれからでも間に合うならば、少しずつ変えていきたい。
例えば、動くのが面倒だなあ……とか、腰が重いなあ……ってときにも、多少無理をして人と関わるようにする、とか。
関わった人に少しでも嬉しい気持ちになってもらえるようにする、とか。
こんなこと、これまでは体力がないからって省エネで避けてきた。
でも、それはただ目先の楽を掴んでいただけだったのだ。

じゃあ、人と関わったり人のために動くことって、そんなに苦なんだろうか?
楽の反対は苦。
もしかしたら、わたしは人との関わりや人のために動くことに対して苦を感じているのかもしれない。

あなたはどう?
苦を感じることってある?

人と関わることは精神的なエネルギーをかなり使って疲労するから運動に似ている。
それに、人のために動くことだって、必ずしも喜ばれるとは限らない。思ったようなリターンが得られない可能性もあるという点ではギャンブルに似ている。

運動とギャンブル。
両方わたしが嫌っていることだ。
この二つに良い思い出がない。

もしかして、この二つに楽しい思い出が付与されたら、思い腰も上がりやすくなって少しは変わる……なんてこと、ないかなあ。