【転記】奨学金問題~「生まれながらの差別」に鈍感な日本社会 | 矯正知力〇.六

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「生まれながらの差別」に鈍感な日本社会
                      大内裕和(中京大学)     

 奨学金返済滞納者の増加に対して、「借りた金を返すのが当たり前だ」という「自己責任」を強調する意見がいまだによく出される。特にネットに多い。しかし、これは重大な誤りを含んだ意見であると思う。

 現在までのところ、日本では大学の学費や「親負担」が原則となっている。
ということは、大学の学費や奨学金について、学生が「自分で何とかする」=「自己責任」の領域として扱うのは不適当である。

なぜなら「奨学金を借りる」要因のほとんどは本人にではなく、「親の経済力」にあるからだ。

多額の奨学金を借りる理由は本人にではなく、親の経済力が不足していることに原因があるのだから、それを学生本人が返すのが「自己責任」だと言い切れるだろうか。

 逆に言えば、「奨学金を借りない」学生は、本人が「借りない努力」をしたわけではなく、「親の経済力」にめぐまれていたからにすぎない。
彼らだけが卒業後に苦労しない「特権」を手にしてよいのだろうか。

奨学金返済困難の理不尽さは、「経済力のある親」の子どもは苦労せず、「経済力のない親」の子どもは苦労を強いられる「格差」にある。

 私立大学の学生が奨学金制度の改善を求めるデモに参加したことに対して、「そんなにお金がないなら国立大学に行け」という書きこみが大量にあった。しかしそこには、国立大学の授業料も現在では安くはないという現実への認識が不十分であるし、また、私立大学よりも入学難易度の高い国立大学には、塾などの学校外教育費を支払える「相対的に」豊かな家庭の出身者が入学しやすいという事実への認識が欠落している。

大学入学は努力だけで決まるのではない。努力を支える家庭の「経済資本」や「文化資本」が大きな影響を与えていることは、これまでの教育研究が余すところなく明らかにしている。

 「日本は資本主義の国だから、格差があるのは当然だ」という意見も、論点をはずしている。

 奨学金を充実することは「結果の平等」を求めるものではなく、「教育機会の均等」→「スタートの平等」につながるからだ。

 壁となっているのは社会に蔓延する「教育の私費負担」と「努力主義」の弊害だ。
1970年代から約40年間、学費が高くなって長い時間がたち、塾や予備校などの学校外教育機関に「私費」を投じることが当たり前になったことによって、教育費を家計が負担するということが、「親の経済力によって子どもの受ける教育の質が異なる」→「生まれながらの差別」という根本的な不公正を生んでいることが見えなくなっている。

 戦後経済成長を支えてきた「努力すれば何とかなる」という努力主義と「一億総中流社会」の「幻想」が、努力しようと思ってもできない「不平等」や「不公正」を見えなくさせている。

努力することは確かに美徳だ。しかしそれが努力を支える条件への視点を欠落させた「努力主義」となった時、新自由主義の「自己責任」を無批判に受容するイデオロギーとなってしまう。

「子どもの貧困」が深刻化するなか、その現実を見ない「努力主義」押し付けの弊害は、ますます大きくなっている。

 奨学金の運動を広げることで、教育への「私費負担主義」と「努力主義」の問題性を明らかにし、「生まれながらの差別」に鈍感な社会を変えて行きたい。


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