先日、あるレストランで、手厚いサービスを受けた。この一年で5~6回程度しか

伺ってはいないので、決して常連という訳ではない。そんな私であるのに、ずいぶん

とよくしていただいた。あまりよくしていただいたので、かえって恐縮してしまった

ほどだ。そんなこともあってか、店との関係について考えてみた。

店との関係を語る上でかかせないことの一つに、常連か否かという問題がある。辞

書で「常連」を引くと、よく...と出ている。この「よく」というのは、どれ位を

いうのだろうか。どの辞書にも「よく」とか「いつも」とか書いてあるが、具体的に

何日以上とは書いていない。どの位したら常連なのだろうか。明確な基準はなさそう

だ。では、常連かどうかは誰が決めるのだろうか。これも、基準は無いだろう。常連

になるには、言った者勝ちか。では、この場合の「勝ち」とは何に勝つのだろうか。

もっと言えば、常連になると何が良いのだろうか。一般的には、他人とは違ったサー

ビスを享受できることだと思う。料理を一品無料で提供してくれるとか、酒を少々多

くついでくれるとかいったことかもしれない。だが、実は、そういった物質的な利益

よりも常連にとって大切なのは、他者との差別化ではないかと思う。特にこの傾向は

、他者との物理的距離が近い店程大きいと思う。とどのつまり、物質的な利益も、他

のサービスも、すべて他者との差別化に貢献しているのだと思う。常連が一番欲する

のは、自分はその店あるいは、店主と特別な関係であり、あななた方一般客とは違う

のだということを誇示することではないかと思う。カウンターに座っている時、オー

ダーしていない料理を、すーっと一品差し出してくれる。「いつも悪いね。」などと

言いながら、隣の客のうらやましそうな視線を感じる。これこそが、常連の骨頂では

ないだろうか。一見客ではあまりない光景だと思う。ではなぜ、店や店主との特別な

が必要なのだろうか。それは、その店になにかしらのステータスがあるからではない

だろうか。ではいったい、店のステータスとは何だろうか。いろいろあるとは思うが

、その一つに「高級」があると思う。常連は、高級な店に通うことにより、自分も高

級になった、あるいは、高級な店に出入りできるようになったと感じるのである。そ

の店に1週間に一度通う人は、一ヶ月に一度通う人よりも高級度合いが高くなるので

ある。もちろん、こんな常連客ばかりではないだろう。私はそんなこと思っていない

という常連さんもいるだろう。一人静かにカウンターの端に佇んでいればそれでよい

という人も多いと思う。私もそういった常連客の一人でありたいと思っているのだが

、何かしらサービスをされると、つい内心でニヤリとしてしまう。私が通う店は、決

して高級ではない。ギャンブラー達が集う、場末の居酒屋だ。そんな店でも常連と認

められているようで、嬉しくなる。まだまだ人としての修行が足りないようだ。

 店側から見た常連とはどのような物だろうか。店は商売なのだから、究極的には利

益が上がればよく、一見だろうが、常連だろうが、金払いのいい客が一番である。し

かし、別の意味もある。店が常連に期待するのは、他者への宣伝である。これは、と

ても都合のよいサイクルで成り立っている。店は時折来る客にサービスをする。客は

良い店であり、常連だからサービスしてもらったと思い込む。そして、あの店は良い

店だ、自分は常連なのだから間違いないと他者に吹聴する。聞いた人は、何度も行っ

ている人が言うのだから間違いないと思う。そして、その店に行ってみる。客は常連

から聞いてきたことを店に告げる。常連は益々サービスを受ける。店としては、この

サイクルが順調に廻ることを期待する。こうやって店と常連との癒着関係は、着々と

築かれてゆくのである。だがいつもうまくゆくとは限らない。店としては、迷惑な常

連もいる。よく来てくれるのだが、いつも何かしら問題を起こす。或いは、金を払わ

ない。そんな常連はとても迷惑だ。寿司屋をしている義父に、来て欲しくない常連に

ついて聞いてみた。づばり、日本の伝統文化に基づいた種類の、芸能やスポーツで有

名な方々だそうだ。日本には妙な文化があり、そういった人達は金を払わないのがあ

たりまえで、店はご祝儀として、無料で飲食させるのが伝統なのだそうだ。にこにこ

してサービスしているが、本音では早く帰ってくれと思っていると言っていた。
 
 常連になってサービスされると嬉しいが、少しこそばゆくもある。個人的には、店

とは着かず離れずの関係でいたいと思う。