※8/15、77回目の終戦記念日を迎えました。

 

 戦争体験者の高齢化が進む中、戦争の悲惨さや平和の尊さを次世代に継承することが、知立市においても課題となっています。

 

 戦時下、知立町では、国家総動員法によって、成人だけでなく、小学生(5・6年生)も食糧増産や軍事施設建設のために動員されました。

 昭和19年には学徒勤労令や女子挺身勤労令が公布され、中島航空金属株式会社知立製造所(現在のアピタ知立)では戦闘機エンジンの部品が学徒や女性(14~40歳)らによって作られました。

 

 戦争末期(昭和19年)には名古屋付近の空襲が熾烈化したことを受け、兵器や食料の保管場が知立中心となり、知立神社境内の養正館(ようせいかん)が名古屋兵器補給廠(ほきゅうしょう)知立支所となるなど、戦時統制の影響が及びました。

 

 また、 物資や資金が軍事に優先的に回され、旧東海道松並木から松根油(ガソリンの代用)を採ることも行われ、昭和18年には猿渡国民学校(現在の猿渡小学校)の校庭にあった内藤魯一や知立国民学校(現在の知立小学校)の東郷英機の銅像が供出され、昭和18年末~翌年にかけて県下各地の団体から国防献金や兵器献納が盛んに行われる中、昭和19年5月には知立町民から零戦「知立町民號(ちりゅうちょうみんごう)」が献納されました。

 

 知立町では計画的な空襲こそありませんでしたが、昭和20年には知立国民学校の校舎が戦闘機からの機銃掃射を受け、西中、山屋敷、八橋などへは爆撃機から爆弾が投下されて家屋が焼失し町民が死傷するなど、大きな被害が及びました。

 なお、知立町から参戦した兵士は1,509名、内、戦死者は419名とされています。

 

 私たちには、世代を超えて過去の歴史に真正面から向き合い、謙虚な気持ちで過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。

 

 そして、我が国は世界平和に貢献するために不戦の誓いを堅持し、唯一の被爆国としての体験や戦後の歩みを踏まえ、国際社会の責任ある一員としての役割を積極的に果たしていかなければなりません。

 

(ちなみに、昭和19年12月には熊野灘を震源とする東南海地震が発生し、愛知、三重、静岡を中心に、死者は1,200名以上に及びました。

 さらには、1か月後の昭和20年1月には三河地震が発生し、死者は2,300名以上に及びました))

 

 

千人燈@知立神社境内

 

*8/15 愛知県戦没者追悼式

(愛知県女性総合センターで戦没者追悼式が開催されました。

 

 新型コロナ感染拡大防止のため、例年の半数以下(約300人、遺族の平均年齢78.2歳)が参列し、正午には黙禱、献花をして戦没者を悼みました。

 

 家族の幸せを願いながら戦陣に散った方々、各都市では敵機による爆撃で大勢の方々が犠牲となり、県内の戦没者は約126,000人を数えます。

 

 国内外に斃れたすべての方々の命の前に痛惜の念を表すとともに、永劫の哀悼の誠を捧げました)

 

 

→ 愛知縣護国神社

(県庁からの帰り道、護国神社に出向き、参拝しました。

 

 二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。

 いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては二度と用いてはならない。

 

 歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく決意を新たにしました)

 

 

 

 

*8/17 デザインコンペ in 三河安城

(安城市では、公共空間でだけでなく、民間空間と併せて「まち」を「つかってつくる」取組を実践し、将来に渡って皆で「つかいつづけたくなるまち」の実現に向けた取組を加速させることとしています。

 

 このコンペは、「まちのデザイン」と「場のデザイン」、「まちをつかう」アイデアを募集するもので、本年末には公開プレゼンテーション→二次審査が行われ、最優秀アイデアなどが選出されます。

 

 こうした市民参加型のまちづくりの取組は非常に興味深く、知立市にとって大いに参考となるエッセンスが含まれています。

 

 夕刻からは、三河安城暫定広場(矢総公園)にてまちかどミーティングも行われ、安城市の若手職員の皆さんがまちづくりを熱く語っていた姿が印象的でした)

 

 

 

*8/18 弘法命日

(朝から生憎の雨でした。

 

 当日8/18は委員会調査で登庁する予定のため、早朝から参拝に出掛けました)

 

 

 

→ 経済産業員会県内調査

(午前中は、①ホテルインディゴ犬山有楽苑を視察しました。

 

 ホテルロビーからは国宝の犬山城を望み、ホテルに隣接する日本庭園「有楽苑」には同じく国宝の茶室「如庵」を有するという、二つの国宝に彩られた珍しいロケーションを楽しむことができます。

 

 株式会社名鉄ホテルホールディングスが旧名鉄犬山ホテルを取り壊し、跡地に新たにオープンさせたのがホテルインディゴであり、国内では箱根、軽井沢に次いで3軒目で、世界100か国、17ブランド、約6,000ホテルの運営を担うIHG・ANA・ホテルズグループジャパンに運営委託されています。

 

 名古屋鉄道が、犬山エリアを日帰り型観光地から滞在型観光地に育て上げることを目指し、自治体や地域とともに魅力ある観光地づくりと受入れ態勢の整備を行う方針を掲げていることから、名鉄ホテルHDが運営するホテルの中でもこのホテルインディゴはハイエンドであり、ハイスペックな客層が想定されることを加味して高品質なサービスを提供しているとのことです。

 

 歴史、伝統文化など、ここにしかない様々なストーリーが存在する犬山にすぐ手が届く場所にホテルが立地していることから、魅力あるローカルな文化に存分に触れていただきたいと、総支配人の柳沢さんが熱く語っておられました。

 

 知立市における観光誘客の心得として、大いに見習うべき点がありました。

 

 ちなみに、名鉄ホテルHD代表取締役社長の岩瀬さんは、知立市出身です。

 

 

 

 

 

 

 

 午後からは、②愛知用水水道事務所知多浄水場を視察しました。

 

 長良川から取り入れた水を水道水に浄水処理し、知多半島の4市5町へ供給し、木曽川から愛知用水を経て佐布里池に取り入れた水を工業用水に処理し、名古屋南部臨海工業地帯などに配水する浄水場です。

 

 24時間体制で、いわば命の水を供給し続けている現場は緊張感が漂っていました。

 

 明治用水頭首工問題を受け、水供給の重要性を再認識したところであり、こうした重要インフラの計画的な設備更新の必要を実感しました。

 

 なお、知立市の水道水の80%は愛知県水道用水供給事業から購入した水で、八橋配水場と西町配水場に送られた後に各家庭に配水しています(残り20%は地下水を浄水処理して配水)) 

 

 

 

 

 

 

*8/19 建設委員会県内調査

(建設委員会に際し、調査対象の建設事務所選出議員として、参加要請に応えて出席しました。

 

 当日8/19の調査対象である知立建設事務所および衣浦公務所から管内公共事業について説明があり、その後、管内市からそれぞれ要望がなされました。

 

 知立市長は欠席。

 知立市都市計画課長からは、例年通り、①知立駅周辺連続立体交差事業の促進、②二級河川(猿渡川、水干川)の改修促進について、それぞれ県当局に要望がなされ、県当局からは、①知立連立事業の見通しの説明の後、知立市が施行する予定で何度も延期されてきた駅南土地区画整理事業の早期着手について、知立市に要請がなされ、②二級河川の改修見通しについて説明がなされました。

 

 引続き、知立市内における愛知県施行の各事業に必要な事業費の確保をはじめ、着実な事業の進捗に加えて、事業効果の発揮に不可欠な知立市施行の事業についても、愛知県の支援を万全に講じるよう働きかけていきます)

 

 

→ チエキタヨイチ

(先週から雨天延期されたイベントに出掛けました。

 

 知立南北線の遊休地を利用したゆったりとした空間にキッチンカーが並び、日が暮れなずんできた頃にはライブも始まって賑わっていました。

 

 いつもそこに賑わいがある駅周辺の仕掛けづくりに尽力くださっている皆さんに敬意を表します)

 

 

 

*8/20 第21回知立よいとこ祭り

(3年ぶりの開催となり、オープニングセレモニーへの参加要請に応えて出掛けました。

 

 イベント会場では、フードブースやキッチンカーに長蛇の列が並び、キッズ縁日や水かけ、eスポーツ会場も家族連れの皆さんで大賑わいでした。

 

 

 

 

 

 

 

 盆踊り会場では、新型コロナ感染拡大防止のため、従来の流し踊りから各出場チーム毎に櫓上で踊りを披露する形式に変更され、櫓の周りではその他チームや飛び入りの市民の皆さんが輪になって踊り、最終盤には、和太鼓ユニット光さんの生演奏に乗って全員で総踊りし、大いに盛り上がりました。

 

 

 

 最後は、勇壮な手筒花火と打上げ花火で祭りが締めくくられました。

 

 

 

 奇しくも、コロナ禍によって祭りの在り様を変化せざるを得ない中、市民の皆さんのニーズに応え得るイベント形態へのブラッシュアップに尽力くださった実行委員会の皆さんに感謝いたします)

 

*8/21 土の御前社例祭式典

(宮元西町さんの御世話で今日まで継承されている知立神社摂社の例祭が厳かに斎行されました。

 

 江戸時代、池鯉鮒宿界隈には池鯉鮒大明神(現在の知立神社)の摂末社が点在しており、池鯉鮒神社の社人であった永見家と永井家、神宮寺である総持寺でそれら御祭神をお祀りしていたところ、永見と永井の両家で人情沙汰が起こった末にそれぞれ廃絶となったため、残った総持寺がすべての摂末社をお祀りするのは困難との理由から、五か町に存する各社をそれぞれの町が受け持つこととし、西町が土御前社(吉備武彦命)をお世話することとなったとのことです。

 

 ちなみに、徳川家康の最初の側室であった於万の方(長勝院)は、池鯉鮒明神の神主(永見貞英)の娘で、結城秀康(徳川家康の次男)の母親です。

 

 偶然と必然が交錯する歴史のダイナミズムに思いを馳せながら、粛然として参列しました。

 

 神事後に賑わう子ども相撲は、今年も残念ながら中止となりました)

 

 

 

→ 盆踊り

(これまで毎回参加してきた遍照院境内での郡上踊りに出掛ける予定でしたが、急遽横やりが入ったため、見合わせました。

 

 相変わらず、しがらみが蔓延り、邪魔立てが根付く知立の現実に嫌気が差します)

 

 

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