これ、”安楽死”の死生観に基づく西洋式ネ、と理解したのも束の間、次のフレーズにギョっとなった。
「その肉(鶏肉)は食用として、冷凍庫に保存中」。
自然死だと、食用不可の肉になってしまうんで、生きてるうちに処分したそうな。
ま、「命が無駄になってない」という点では、鶏にとっても人間にとっても一石二鳥(シャレかい)だから、その正否を問うものでは無いザンスが、ただ単純に、『15年も飼ってた鶏を、食べる事ができる感覚』にギョっとしますやん。さすが肉食文化?
鶏を飼った事がない私は、鶏に情が移るかどうかワカランけど、15年も一緒にいたら、名前とか絶対つけてると思うわ。名前をつけた鶏を食べる事はできんなぁ。鶏の成仏になると頭ではわかっていても、口と胃が受け付そーにないわ。
あ、これ、アニマル可哀想の感傷論じゃないヨ。
今宵も、赤いウシに舌鼓を打ったとこダシィ。
鶏エピソオドを、魚食文化の日本人に置き換えると、15年飼ってた鯉を食べるよーなもんですかね?(チョト違うか)。あるいは、15年飼ってたスッポンを、スッポン鍋にするようなもん?(チョト違うか)
鶏やウサギを平気でサバく仏人でも、生きてるカニやエビが、煮えたぎる湯の中につけられるのを見ると、可哀想!と顏を覆う人がいるんで、食文化の差は理屈じゃないンヨネ。
活魚の”踊り食い”なんかは、仏人にとっては、野蛮人!に映るだろーしネ、鶏の首は絞めてるクセに。