前回の記事で、
「願い事」との言葉が出ましたので、
今日はそのことについて補足しますけども、
願い事を話題にするのは個人的に、
あまり好きではなくてね。
なんでそうなのかと言うと、
理由はいろいろとあるのですが、
一つ目には、
願い事を宗教の目的にしすぎると、
課題発見力や解決力や、
問題点を整理する能力が
鈍る原因になり得るから。
病気を治したければ病院で治療を受けるべき。
難関大学に合格したければ相応の学力を身につけるべき。
お金が欲しければ稼ぐべき。
良縁に恵まれたければ、まずは自分が
良縁に似つかわしい人物になるべき。
で、それらがどうやら叶いそうにないとなれば、
目標の見直しと修正をすべき。
病気があっても、
学歴がなくても、
お金がなくても、
伴侶がいなくても、
幸せに生きてる人なんて、
世の中にはいっぱいいるんですから。
それらのことをしつくしたうえで、
最後にできることとしての願い事なら、
僕は悪いとは言いません。
でも、何でもかんでもすぐ、
願い事する奴ってなんか、
頭のネジ足りない奴に思えません?
無宗教で宗教嫌いの人には、このように、
課題に向き合わずに願い事で
解決しようとする人が愚かに思えてきて、
宗教嫌いになった人もいるのではないでしょうか。
それに、カルトでも同じことをしてるんですよね。
「私は不幸な人生を歩んでいました、
しかし◯◯教に出会ってから…
病気が治りました!
大学に合格しました!
お金持ちになれました!
良縁に恵まれました!」
…みたいな怪しい宗教。
カトリックでも、
病気が治った類の話はありますが、
あんまりそれを前面に出すと、第三者から、
カトリックとカルトが同一視されそうで
嫌なんですよね。
二つ目に、
僕が願い事をあまり好まない理由は、
願い事には、その当事者しか
幸せになれないものが多いから。
無病息災とか、合格祈願とか、
商売繁盛とか、恋愛成就とか、
願いたくなる気持ちはわかるんですよ?
わかるんですが、僕の耳には、
自分さえ良ければいいと言っているのと
同じに聞こえるんですよね。
かく言う僕も実はね、
病気した時とか精神が弱っているとき、
ついお守りを握りしめたり、
願い事してしまう時はありますけどね。
でもカトリックの本質は
そこじゃないと思うんですよね。
カトリックという言葉が持つ意味は、普遍。
だから、自分だけが救われるのではなく、
みんなで救われる視点で考えないとね。
以上の理由から願い事は、
カトリックを含めた諸宗教の側面ではあるものの、
前面に出すべきものではないと思う、
フランシスコでしたとさ。
めでたし、めでたし。