Chiara  Luceの原田光津子です。

 

日頃はお気楽に過ごしているわたしも、日曜日には、

 

ちょっとだけ良い人になったりします。

 

 

教会で祈る時間は、暮らしの垢を落としてくれます。

 

今日の主日の福音は、『マタイによる福音書』のぶどう園の労働者のお話。

 

「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、1日につき1デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。

また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、

12時ごろと3時ごろにまた出て行き、同じようにした。5時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで1日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。

夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、1デナリオンずつ受け取った。

最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも1デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、1時間しか働きませんでした。まる1日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 主人はその一人に答えた。

『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 

 

人の考えでは、長時間労働をしていればそれに相応しい賃金を請求して当然で、1デナリオンの約束ならそれ以上を請求できないとしても、短時間労働者には減額してもしかるべき。

 

解らなくもありません。

 

ところが、短時間労働者に1デナリオンを主人が払ったものだから、途端に、朝から働いていた者の頭の中には、「もっともらえるだろう。」と期待が湧きあがってきたのです。

 

こういう期待は大抵残念な結果になりますね。

 

神さまのお考えと人の考えは違うのです。

 

ぶどう園の主人は朝から働いていようと、1時間しか働いていなかろうと1デナリオンを払いました。

 

 

朝から働こうが夕方から1時間しか働かなかろうが、

 

人が1日を生き抜くには、同じだけ必要なのですから。

 

 

神さまの視点はそこにあります。

 

 

善人の上にも悪人の上にも日を昇らせる神さまですから。

 

 

今日のお説教では、

 

仕事がないというのは、本当に社会から不要な人間と思われ、つまはじきにされたようなもので、とても辛いもの。

 

 

神さまはその悲しさを慰めたいと思われているのかもと。

 

 

仕事は人生・生活の中でかなり重要視されていて、それは生きる全てを供給するもの、お金も、人間関係も、生きがいも。

 

 

しかし、やがて仕事は自分の手を離れるものですから、人生で大切と思うものの多くを委ねたままでいいのかしら・・?

 

 

他になにが可能でしょう?
 

何を選びましょう?