WBCは日本の完全勝利に終わった
WBCは、日本国民を熱狂させた。同時期に春の選抜全国高校野球大会が開幕し、ある東北地方の代表校に起きた記事を目にした。
初日第1試合初回で、東北高校(宮城)の選手が侍ジャパンのヌートバーでお馴染みとなった「ペッパーミルパフォーマンス」を見せ、塁審に注意された。それを受けて、佐藤洋監督は反論し、
「なんでこんなことで、子供たちが楽しんでいる野球を大人が止めるのか。ちょっと嫌というか、変えた方がいいんじゃないのかなと。ちょっと思いましたね」とコメント。
翌日、日本高野連は「選手の気持ちは理解できますが、プレーで楽しんでほしいというのが当連盟の考え方」として、ペッパーミルは「不要なパフォーマンス」と異例のコメントを発表した。
この一つの記事は単なる出来事ではなく、日本社会を象徴するものである。
日本語の「自由」は主に、英語では liberty とfreedomに二分される。詳細すると前者は獲得した自由であり、後者は解放された自由となる。アメリカ人にとってThe Statue of Liberty に代表されるように、自由とは自らの力で獲得するものだという思想が根付いている。一方、日本はその分類が曖昧である。どちらかというとfreedomの方が居心地が良いのだ。
つまり、ある一定の管理下におかれて行動することに安心感を覚える。日本人は、ルールを守る忠実な国民で有名だ。それは時に美談で称される。ある意味、一定の基準を構成する組織に示されて初めて、それに従う行動規範を遵守する傾向にある。そして、それから逸脱する行為は、社会から大きなしっぺ返しを生む。多くの日本人はそれを好まない。
では、高野連はどのような理由で上記コメントを出したのか?それは、学校の校則と考え方は同じだ。規則を厳格化しておかないと、とめどなくパーフォーマンスが生まれると考えるからだ。では、どれが良くて、どれがダメだという議論が発生する。こうなると収拾がつかなくなる。だからこそこのような対応に終始してしまうのだ。
私は、根本的にこの考え方を転換していく時に来ていると考えている。
個々を尊重する
時代は、個々を尊重することを求めている。そうであれば、ある一定の規則に縛るのではなく、個々に考えさせればよいのではないだろうか?。もちろん個人の責任は今以上に重くなる。社会の声というものの集合体が、その時代の流れを正確に決める方向に行くことが大切だ。ある少数の権力が、方向性を決めてしまうようではその国の未来は魅力に乏しい。マスクの着用についても同様だろう。政府の方針が示されれば、仕方なくもしくは素直に従う国民だ。その中だけで、懸命に自由を求める。まさに、放牧された家畜状態(freedom)の日本。一方、アメリカ人は自由を求めて(liberty)進む。
この先にある差
失われた30年と言われて久しい日本。確かに世界から取り残されてしまった。これは、新しいものを生み出す土壌にある。土壌とは教育システムだ。日本の教育システムは試行錯誤を繰り返してはいるが、なかなか変わらない。それは保守的だからだ。新しいものに対する理解、挑戦を応援する力が圧倒的に足りない。アメリカでGAFAに代表される企業が次々と生まれる土壌は、創造するものに対する価値観が異なるからだ。そして、その代表的な出来事がこの「ペッパーミルパフォーマンス記事」であると思われる。
日本人は、自らの責任において考えることをするべきである。これが日本の未来の鍵を握る