こんにちは


『私なんて』という自虐や自己卑下って、一見謙虚ですよね。


ライトなものであれば笑いが起きて終わりです。

しかし、本気で言っているらしきもので更に度が過ぎるとそれは謙虚でもなんでもなくなります。


たとえば


私はデブスだから誰も好きになんてなってくれないよ。全然モテないから。


私は頭が悪いから何をやっても出来ないよ。どうせ私なんて無価値だから。


こういう事を他人に言ってしまいたい位に自分自身に失望してしまう事は有ると思いますし、その感情自体は仕方のないものです。


Twitterに独り言をつぶやく分には完全に個人の自由ですからなんの問題も有りません。


しかし、問題なのはこれが独り言ではない場合です。


目の前に話を聞いてくれている誰かが居る場合、それは会話の中の一部となります。


独り言だと思っているのは自分だけで、目の前の相手は何らかの反応をしなければならないという選択を迫られています。



そこで逆に考えてみて欲しいのですが、目の前の相手から『私はデブスだから誰も好きになんてなってくれないよ。全然モテないから。』と言われたら、『全くその通りだね!』と言えますか?


大抵の人は言えないと思います。

思い遣りが有るからです。


たとえ『完全に同意!』と思ったとしても言いません。

わざわざ目の前の相手を傷つけたくないからです。


ですから相手はフォローをする以外の選択が出来ない場合が多いです。


自分の為に目の前の相手にサービスを強要してしまう事になるのです。


会話の中での行き過ぎた本気の自虐や自己卑下というのは謙虚どころか思い遣りの無い行為です。


自分の事しか見えていません。


大抵の人はわざわざ誰かを傷つけたくは有りませんから、そんな事ないよとフォローをしますが、そこに対しても『でも』と被せてまた自虐や自己卑下を続ける行為に、目の前の相手への配慮は有りません。


かくいう私もこういう事を言ってしまっていた事が有りました。


振り返って思うのは、自分の事しか見えていなかったという事です。


だから目の前の相手に気を遣わせると分かり切っている事をしてしまっていました。


自虐や自己卑下をしているだけで他人を攻撃してはいないかもしれません。


しかし、優しさは無い行為です。


無害かもしれませんが、優しくは有りません。


無害である事と優しい事とは全くの別物です。


だから自分を卑下する事を平気で言って回る人の周囲には優しくない人が残ってしまいます。


しかし本人は気付いていない場合も多いと思います。


どうしてみんな去っていくの!やっぱり人間なんて薄情!


などと思ってしまう人も居るかもしれませんが、それは自分がした事の結果です。


自虐や自己卑下が口を突いて出る時は、もっと心の奥にいじけるような気持ち拗ねてしまうような気持ちが有るのではないではないでしょうか。


自分が満たされていないのに他人にまで気が回らないのは無理も無い事です。


まずはいじけも拗ねも、ちゃんと認めてあげる事からです。




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