本来は『露国皇太子遭難地』と記すところですが、歴史の勉強でも登場する「大津事件」を表題にしました。

 

事は知りつつ場所まで知らず

 

ご存知の通り、今年は2月より“ロシア”という国が大きく取り扱われています。一刻も早くウクライナとの間の戦争状態が解消され、ウクライナに平和な暮らしが戻ることを祈ります。

 

今から遡ること131年前の明治24年(1891年)、そんな大国ロシアより訪日した皇太子ニコラスが、警備を担当していた津田三蔵に切りつけられた「大津事件」。学校で習うものの、大津のどこかというのは今まで知らずにいました。

 

今回「両国寺」へ向かう途中で見た市街地案内図上に、「露国皇太子遭難地の碑」と記されているのが目に入りました。

 

 

そうか、ここにあるんだ。

両国寺からの帰りに寄ってみよう。

 

(Google mapは両国寺のものをご覧ください)

 

というわけで、その帰り道。

 

行けばわかるだろうと思ったが

 

著名な事件なのだから、それなりに立派な碑が立っていて、碑の周りも整備されていて、説明板もあって・・・なんて想像しつつ近くを歩むのですが、なかなかそれらしきものが目に入って来ません

 

少し注意しながら、案内図でマーキングされていた小さな交差点辺りを観察すると…

 

 

あれか・・・

 

背後の建物の壁には大津事件を説明した紙が貼り付けられており、下にその画像を貼っておきます。概要は冒頭記載の通りですが、詳細はこの紙かWikipedia先生の説明をご覧ください。

 

 

・・・なんで、指が添えられているのかな?

 

“此附近”の意味

 

説明を一通り読んだうえで、改めて碑を正面より観察します。

 

 

「此附近(この付近)露國皇太子遭難之地」と記されています。“ここ”ではなく“この付近”なんですね。

 

人力車に乗っていた皇太子ニコラスは、切りつけられた際に脇の路地へ逃げ込んだものの、その先でも更に斬りつけられそうになったことから、現場を「この付近」と表現したんでしょう。恐らく。

 

碑の左横に“お辞儀をしている”のが既出の説明の紙でして、なぜ画像で指が添えられていたのか納得いただけると思います。

 

なお、大津事件で切り付けられた皇太子ニコラスはその3年後にロマノフ朝での最後のロシア皇帝ニコラス二世となり、ロシア革命を招き1918年に銃殺されたとのこと。その革命よりロシアはソビエト社会主義共和国連邦になり・・と、みなさんご存知のとおりとなります。

 

文字が多くなるとしんどい(笑)ので、今回はここまで。