今日は、この抄をご紹介します…
((o(^∇^)o))
【一生成仏抄】
《御文》
都べて一代八万の聖教・三世十方の
諸仏菩薩も我が心の他に
有りとは・ゆめゆめ思ふべからず、
然れば仏教を習ふといへども 心性を
観ぜざれば全く生死を離るる事なきなり、
若し心外に道を求めて万行万善を
修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を
計へたれども半銭の得分もなきが如し
《通解》
釈尊が一生の間に説いた八万といわれる
多数の素晴らしい教えや、三世十方の
仏や菩薩たちも、全て自身の心の他に
あるとは、決して思ってはならない。
したがって、仏教を習うといっても、
自身の心性を観じていかなければ
全く生死の苦労を離れることは
できないのである。
もし、心の外に成仏への道を求めて、
あらゆる修行・善行を実践したとしても
それは、例えば貧しさに窮している人が
昼夜にわたって隣人の財を数えても、
半銭の得にもならないものである。
≪背景と大意≫
本抄は御執筆の年次や宛先など
最中ではないが健長7年(1255年)
に著され、富木常忍に与えられたと
伝えられている。
題号の「一生成仏」とは、凡夫が、この
一生のうちに成仏するということである。
本抄では、この一生成仏の要諦である
「唱題行」意義について、法理と実践の
両面から明らかにされている。
日蓮大聖人は本抄の冒頭で、
「南妙法蓮華経」と唱える唱題行こそ
直道であると教えられている。
ただし題目を唱えていても、己心の外に
法があると思えば、妙法ではなく
、成仏はかなわないと戒められ、仏法の
ためのあらゆる行動は、自身の一念に
功徳・善根となって納まっていくことを教えられている。
また衆生と仏の違いは〔迷い〕と〔悟り〕という生命の状態にすぎず、映りの悪い
鏡も磨けば明鏡となるように、
迷いの生命も、深く信心を起こして
題目を唱え続けていくことで、仏の
生命と輝くと仰せある。
最後に「妙法蓮華経」の深義を
〔妙〕〔法〕〔連華〕〔経〕に分けて
明かされるとともに、自身の生命が妙法の
当体であると深く信じて題目を
唱えていくならば、一生成仏は疑いない
ことをご教示されている。

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