手塚治虫氏が、1951年から連載を開始した「鉄腕アトム」シリーズですが、本作は「地上最大のロボットの巻」という題で、1964年に描かれたものです。

 浦沢直樹さんは、子供の頃に本作に触れ、特に強く関心を持っていたため、折しも2003年のアトムの誕生日(と手塚氏が漫画で設定した年)に発表するよう、アトムシリーズの中から、この作品を原案とした漫画を描くことを提案したのだそうです。

 浦沢さんといえば、『YAWARA!』や『MONSTER』など、作品が映像化されています。特に『MONSTER』は、アニメ化にあたって、「何も足さない、何も引かない。」ことを条件としたそうです(高橋源一郎「これはアレだな」:サンデー毎日)。そのためか、『PLUTO(プルートゥ)』でも、原作のコミックス全8巻が、それぞれ1時間前後の尺を使ってアニメ化されています。

 また、作品の発表から20年経ってのアニメ化ということもあり、原作を忠実になぞりながらも、出来栄えは原作以上です(誉め言葉)。作画のクオリティが高いことはもちろんですが、個々のエピソードにおけるキャラクターの内面の掘り下げ方が深いです。

 とある国が開発したロボット「プルートゥ」に、世界に7体いる最新型ロボットの破壊が命じられ、アトムを含むロボットたちは次々と破壊されてしまいますが、アトムはより強力に改造され、再戦。その最中に起きた地殻変動を、二体で協力してくい止め、プルートゥは死んでしまうというのが、手塚版と浦沢版に共通するあらすじです。

 浦沢版では、前提となる社会において、ロボットにも人権が与えられています。また、人間とロボットの区別がつかないタイプもいます。そして、ロボットは、人間を殺すことができないようにプログラムがなされています。
 そんな中、世界有数のロボットの破壊が行われると同時に、ロボット擁護団体の幹部やロボット科学者も殺されます。
 捜査に当たるロボット刑事ゲジヒトは、過去に人間を殺したことで拘束されている「ブラウ1989」に面会しながら、事件の真相を追っていくのです。

 手塚版では、プルートゥはアトムの人類を救おうとする姿に感化され、改心するというものですが、浦沢版では、「憎しみの連鎖」と、「しかし、憎悪からは何も生まれない」ということです。
 プルートゥは、侵略を受けた国が、他国への憎悪を糧に作られたものでした。そして、その侵略にも応戦にも多くのロボットが使われていました。
 そのため、プルートゥに破壊されたロボットたちも、戦争に加わり、その悲惨さや虚しさを痛感して生きてきたのです。さらにプルートゥ自身、戦いたかったわけではありません。ロボットを破壊するたびに、その苦しさ、理不尽さ、悲しさを積み重ねていたのです。

 本アニメは、20年前に出版された浦沢版が、いかに現代にも通じるテーマ性を持っていたのかを痛感させます。

 私は特に、第1話後半、盲目となった作曲家ダンカンとノース2号のエピソードを、涙無くしては見られません。手塚版では、科学者とそのロボットというあっさりしたものでしたが、浦沢版では、科学者を作曲家に置き換え、少年のころ母に捨てられたという設定を加え、深みを出しています。他者を排し、偏屈だったダンカンが、ノース2号と心を通わせていく過程が素晴らしいです。

 世界では紛争や戦争が絶えませんが、「憎悪からは何も生まれない」と思うことによって、争いを止めることはできないのでしょうか。

 『ゴーマニズム宣言』の作者、小林よしのりさんが『戦争論』の中で、「「戦争」の対義語は、「平和」ではなく、「対話」である。」と言っていました。
 相手を「問答無用」でねじ伏せて得られた「平和」は、本当の「平和」にはほど遠いものです。
 相手の主張に耳を傾け、こちらの主張についても聴いてもらえるよう努力することが、戦わなくていい状態をつくるのだと思います。
 
 こうした時代だからこそ『PLUTO(プルートゥ)』がアニメ化された意味があるのではないか、と考えました。