ヨーロッパの悪夢「フランス革命」を経て、ブルジョアが台頭する社会へ
日本人はフランス革命が好きである。日本の西洋史ではイギリスとアメリカとフランスでしか起こっていない市民革命の異議を強調しすぎるあまり、偏ったヨーロッパ史観が日本人には定着している。
ヨーロッパ中心史観に立っても、1721年から1742年に英国初代内閣総理大臣ウォルポールの下で始まり、今日まで続く議院内閣制度が確立した意義を述べないのは不公正である。
アメリカはそもそもヨーロッパとして認められていない。フランス革命という暴力行為の前に、フランスも含めて欧州のほとんどの国で絶対主義から啓蒙専制主義に移行した歴史を知らなければ、ヨーロッパ中心史観すら描けない。
18世紀中盤には、オーストリアのマリア・テレジア、プロイセンのフリードリッヒ大王、ロシアのエカテリーナのような、自身が教養人であり、宮廷をサロンの場として保護し、自己の領域で上から啓蒙を行い、実際に影響力の大きかった君主たちを軽視する一方で、暴力の発露であった市民革命のみを強調するのは、よほどの共和主義者が日本の歴史書を記述していたからであろうか。
話をヨーロッパに戻そう。アメリカ独立戦争直後に大英帝国を率いたのは、25歳のウィリアム・ピット(小ピット)だった。七年戦争の大ピットの次男で後に小ピットと呼ばれる青年宰相は、就任時に「大英帝国は破産している」と述べたが、近代経済学の祖と呼ばれるアダム・スミスを師と仰ぎ、自由主義貿易の推進により帝国を再建していく。
その小ピットが直面したのが、フランス革命(1789年)と続くナポレオン戦争(1803年~1815年)だった。
フランスはルイ14世以来、慢性的に戦争を行うがイギリスには連戦連敗であり、ようやく勝利したアメリカ独立戦争で財政破綻に瀕した。そして1789年、フランス人権宣言に代表されるようなイデオロギーが、ブルボン王朝を倒すに至った。
18世紀を通じて戦争は国王のゲーム、果し合いであり余興であった。ウェストファリア体制以来、王朝こそが国家であった領邦主権国家において、土地の奪い合いはあっても相手の存在を抹殺するまでには至らなかった。
「自由・平等・博愛」というイデオロギーを掲げ、王朝を抹殺しようとする危険な暴力にヨーロッパ諸国は直面することになる。利害ではなく理念による闘争は、宗教戦争の時代以来久しぶりである。そして、心優しき国王だったルイ16世は、暴徒の代表が多数を占める議会の多数決によって処刑された。
フランス革命のイデオローグによって独裁者となったマクシミリアン・ロベスピエールは、恐怖政治の代名詞となっている。万世一系だったブルボン王朝の断絶は、アノミー(無規範状態)をもたらした。
国家としての結集原理を失ったフランスは迷走する。そのロベスピエールもテルミドールの反動で処刑され、共和国の実権はナポレオン・ボナパルトに移り、やがて帝政に移行する。
かつての宗教戦争にしても、啓蒙主義のイデオロギーが暴走したフランス革命にしても、理念の戦争は相手の存在を抹殺するまで行いかねない。戦争の様相を残酷にする。
だが、フランス革命・ナポレオン戦争においては、かつての宗教戦争や20世紀の総力戦とは異なる決定的な安全弁が存在した。1789年~1815年にわたりヨーロッパ全土を混乱に陥れた大戦争でありながら、革命や戦争の前と何も変わらぬかのように旧態に復すことができた理由が、主権国家の枠組みである。
まず、フランス革命のイデオロギーは、王朝の打倒による混沌をもたらしたが、フランスという国家そのものは否定しなかった。かつてルイ14世は「朕は国家なり」と豪語したし、干渉戦争を行っている諸外国もブルボン王朝を救護しようとしたが、国家や王家の存在=国家ではなくなっていた。
この革命干渉戦争に際して、フランス国民軍が徴募された。かつて僧侶や貴族のような特権階級が支配した時代、特権階級は土地だけでなくそこに住む人間も家畜と同様の財産として扱った。しかし、新興富裕層(ブルジョア)の台頭により、彼らは武器を持ち、特権階級の支配に立ち向かった。
彼らの矛先は特権階級だけでなく、革命を粉砕しようとする外国勢力にも向けられた。そして勝利し、国家としてのフランスを守り抜いた。
ナポレオン戦争により、ヨーロッパでは主権国家の枠組みが強まっていく
ナポレオン戦争はヨーロッパに国民国家化の流れを生み出した。
ナポレオンが強かった理由は、ひとえに共同体軍の強さにある。他のヨーロッパの国の陸軍は傭兵に依存していた。彼らの目的は金であり、雇い主への忠誠心は皆無である。だから、戦場では逃げないように密集隊形が組まれ、軍楽隊の太鼓に合わせて移動するので、進撃速度が遅い。大砲が主武器となる時代には不向きな隊形である。
戦争が長期化するにつれ、ヨーロッパ諸国はナポレオン軍にならい、国民軍制度に移行した。これにより、国民戦争時代が到来する。そして戦力が拮抗し、ついにナポレオンは敗れた。だが、ヨーロッパ全体に国民国家化の流れが広まり、主権国家の枠組み自体は強まる。
そしてナポレオン戦争の講和会議であるウィーン会議(1814年~1815年)で、ヨーロッパにおける英露仏墺普の5大国による指導体制が確立された。
特に、敗戦国のフランスも大国の一角として地位が他の4ヵ国に認められた。これはフランス全権大使タレイランの卓越した外交能力と、敗戦国でありながらも最強の陸軍力を保有していた実力により可能であったのは言うまでもない。
フランス革命やナポレオンを敵視した周辺諸国は、革命政権や帝政を打倒しようとはしたが、フランスという民族や国家を抹殺しようとは考えもしなかった。
繰り返すが、相手の総力を打倒するまでやめない、宗教戦争や20世紀の総力戦とは様相がまるで違うのである。
フランス革命・ナポレオン戦争も含めたウェストファリア体制における「戦争」とは、主権国家を抹殺するまではやらない、儀式なのである。