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かくれんぼ

私の物語の待避所です。
よかったら読んでいってください。

 

 

扉を開けると、予想通り父の姿はなかった。代わりに、蓋を開けたウォッカや焼酎がそこら中に散らばっていた。ガラスの破片も落ちている。ビンの近くにはキツイ臭いのする液体も零れており、酷い有様だった。なんて汚さなの。きっと、癇癪を起こして暴れまわったのだろう。リビングをこのままにしておけるわけがなく、仕方なしに、それらを片付けようと、ビンの近くまで行き腰を下ろした。

 

その時だった。突然リビングのドアが開き、父が入ってきた。振り向くと、その顔は、もう以前のものとは比べ物にならないほど、おぞましく変化していた。目は血走り、顔には無数の出来物があった。髭も剃っておらず、体からは例えようのない異臭が放たれている。私はあまりの変貌ぶりに小さく悲鳴を上げた。すると、父は大股で近づいてきて、無言でこちらを見つめた。

 

「お前に俺の何が分かる」

 

父はそう言って私の頬を叩いた。打たれた頬が熱くなっていく。私は何が起こったのかわからず父を見上げた。

 

 

どうして。

なんで。

 

 

私は泣いた。どうしてこんなことになってしまったのだろう。いつからなの。この家はいつからおかしくなってしまったのだろう。泣き出す私に対し、父はさらに激高しながら胸倉を掴んだ。そして何度も頬を殴った。殴られるたびに頬は赤く染まり、目には涙が溜まっていった。

 

 

もう嫌だ。

どうしてなの。

 

 

私は何か悪いことをしたの。

 

 

それでも、そんなことを聞けるはずもなく、ただ頬が腫れていくのを感じることしかできなかった。

 

その後、十分ほど経ったところで、姉が帰ってきた。そして、リビングに入ると、甲高い叫び声をあげた。その声で正気を取り戻したのか、父は慌てながら私を離した。そして、今までとは一変し、私に向かって土下座をした。しゃがれた声で泣き神戸を垂れて謝罪をした。

 

 

どうして。

ねえ、どうして。

 

 

私は思った。どうして私の悲鳴はだめで姉の悲鳴は許されるの。目の前で蹲る父。遠くで震える姉。どうして、ねえ、答えてよ。その瞬間、今まで募らせていた恨みが爆発した。なぜ父は姉を殴らなかったの。なぜ姉の声を聞いて私を離したの。どこにも吐き出せない黒い感情が心の中に渦巻いた。

 

それからというもの、私は事あるごとに父に殴られた。日々のストレスを発散するいい道具だったのだろう。顔だけじゃない。腕や腹も殴られた。大抵、三十分ほど殴ると気が落ち着き、その度に土下座をして謝った。どうして私だけ。姉はいつも夜遅くに帰ってきた。図書館での勉強を飽きもせず続けているらしい。家族より勉強の方が大事なのね。憎らしい。

 

実の娘だ。居合わせたとしてもあの時みたいにきっと殴られない。私は孤独を舐めながら、血の味を知った。

 

しかし、しばらくすると殴られているのが自分だけではないことに気が付いた。そう、母も暴力を受けていたのだ。夜中、尿意を感じ、ふと起きた時に知ってしまった。両親の部屋の前を通り過ぎるときに聞こえてきたのだ。鈍い音と怒号。そして、母の泣き叫ぶ声。

 

耐えられなかった。自分だけならまだしも、大好きな母が同じ目にあっていることが辛かった。どうしてこんな目に合わなくちゃいけないの。私達だけ。本当の家族じゃないから。父に対する嫌悪感が増すたびに、姉に対する憎悪も強くなっていった。

 

そんな日々が続く中、ついに父の失業保険が打ち切られた。同年秋の出来事だった。その日から、家計は以前よりずっと悪くなり、家族間に会話はなくなった。

 

夜。自室へ戻ると、姉がこっちにおいで、と二段ベッドの上に来るよう私を呼び寄せた。関係は冷え切っていたが、返事をしないわけにもいかない。六畳一間の狭い室内には、古い勉強机が二つと二段ベッドが一つ置かれていた。上が姉で、下が自分。姉と話すのは気が進まないが、仕方なしに梯子を上った。

 

「ごめんね、奈緒」

 

隣に座ると、姉はいきなり謝罪をした。突然のことに、驚きながら、目を逸らした。

 

「なによ、謝ったりなんかしないで。思ってもいないくせに」

 

自分でも驚くほど言葉がスラスラと出てきた。

 

「他の家族だけ殴られているのは、さぞ気分がいいでしょうね。実の娘っていうだけで被害を受けないなんて、最低よ。そもそも、あなた達と私は赤の他人なのに。どうして、こんな目に合わなくちゃいけないのよ。大嫌い!あなた達さへいなければ私達は幸せだった!大嫌いよ!」

 

姉は私の言葉に動揺した。そして、そっと私を抱きしめた。

 

「やめてよ、離して!」

 

「嫌だ。離さない」

 

「あなたなんて嫌いなの!」

 

胸を押して離れようとするが、離れられなかった。それどころか、姉は抱きしめる力を強くしていった。

 

「ねえ、聞いてほしいの」

 

頭上から聞こえる。

 

「今、私ね、バイトをしているの。勉強なんてしてない」

 

「え?」

 

耳を疑った。バイトって。勉強はどうしたの。大学へ行くんじゃなかったの。混乱する私に向かって、姉は続けた。

 

「ビックリしたでしょ。私、進学はしない。就職するの。就職したらお金が必要だから、バイトをしているの」

 

「就職?家を出るの?あの父親を置いて、この家を出る気?」

 

「違うわ。逆よ。奈緒とお母さんを、この家から離れさせるためよ」

 

「どういうこと?」

 

「今、奈緒たちがここを出ていけないのは、私や父を養うためでしょう。それなら、私が働けばすべて解決するじゃない。私が働いて、お父

さんを養う。そうすれば、奈緒たちは無事に父から離れなれるわ。新しい転居先もこの前、見つけておいたから安心して。今年中には私も就職できるし、学校に籍がある内は行きながら務められるって聞いたから、きっと大丈夫よ」

 

そこまで聞いて、奈緒はやっと姉の言っていることを理解した。姉は私たちのためにずっと頑張っていたのだ。自分を見捨てたりしていなかった。奈緒はそれに気が付くと、途端に泣き出した。その日、心が温もりを取り戻していく感覚を知った。

 

けれど、姉の希望が果たされる日は来なかった。姉妹にとって、家族にとって最大の不幸は突然訪れた。