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フロントガラスの向こうで信号が赤に変わるのが見える。美穂さんがゆっくりとブレーキをかけ車は動きを止めた。車に備え付けられたカーラジオからはオアシスのホワットエヴァーが流れ、無音で包まれた車内を明るく活気づけさせている。洋楽なんて聞かないから歌詞の意味も曲の良さも分からない。ただ一つ分かることはこれを流している美穂さんは大人なのだということだけだ。それに比べ、お腹の上で抱えている真っ赤なランドセルをきつく掴む両の掌はとても幼く見えた。
信号が間もなく青に変わるところで、美穂さんが口を開いた。
「スミちゃん、だよね。君の名前」
アクセルが踏まれ、滑らかに車が発進し、右へ曲がった。車窓の景色がガラリと変わる。ずっと見ていた住宅街から商店街へとたちまち移り変わっていった。夏と秋の狭間で揺らぐ陽の光が街並みに優しく降り注がれている。
美穂さんの問いかけに私は小さく頷いた。美穂さんは私の方をちらりと見てから、すぐに視線を前に戻した。
再び、沈黙が訪れる。何度目かの角を曲がったところで、美穂さんが言った。
「もうすぐ着くから、降りる準備しといてね」
はい、とか細い声が口から洩れる。いつのまにか赤くなっていた指先の力を緩め、ランドセルを抱き直す。
数分後、車は小さな駐車場に止められた。看板には達筆で『和菓子屋 絢瀬』と書かれていた。そうか。ここは店の駐車場か。美穂さんはドアのロックを外すと、てきぱきと車外に降りた。私もそれに続くようにして急いで降りる。外は思った以上の暖かさで、パーカーを羽織ってきたことを後悔した。
「ほら。こっち来て。従業員用はこのドアだから。表から入っちゃだめよ」
美穂さんが私を手招きしながら言った。従業員用のドアは、一般の出入り口―そちらの方は何代も前から使われているらしい木製の引き戸だ―とは違い、近代風の金属でできたドアだった。ガチャガチャと鍵が回され、ドアが開く。
すると、中から大きな声が聞こえてきた。
「店長、おかえり!秋に出す試作作っときまし…って、え、その子」
イントネーションが違う。関西弁かな。そんな茶髪のお兄さんが怪訝そうな顔でこちらを見つめていた。美穂さんは溜息を吐きながら、私の手を引いた。
「伝えといたじゃない。今日からうちで預かることになったの」
「預かるって…。まさか。お嬢ちゃん、学校はどないしたん?」
学校、という言葉を聞いて顔が強張り、手に汗が染み出していく。美穂さんは、そんな私の状態を察し、体の後ろに私を隠した。
「だから、諸事情なの。ほら、金廣は店番やって」
茶髪のお兄さん―金廣譲というらしい―は不服そうな顔をしながらも、美穂さんの言うことを聞き、店の奥へと消えていった。
美穂さんはもう一度ため息を吐き、近くの戸棚を開け始めた。がさごそと何かを探している。私は何をしたらいいか分からず、その場に突っ立っていた。
戸が開けられたり閉められたりを繰り返しながら、手がそれに合わせ素早く動いていく。三段目の戸を開いたところで、探していた、何かを見つけたようだ。
美穂さんは取り出したものを手に持ちながら、こちらにやってきた。そして、膝を床につけ私に目線を合わせた。
「ほら、ばんざいしてごらん」
言われたとおりに、両腕を伸ばす。頭に襟首が通され、手先からは袖を通される。最後に、くるっと反転させられ、キュッと後ろで紐が縛られた。
真っ白な子供用の割烹着。胸には店名が刺しゅうされていた。
「これ、スミちゃんにあげる。だから、今日からスミちゃんは私たちの仲間。金廣にはあとでちゃんと言っておく。わかった?」
頭をポンポンと優しく叩かれる。私はエプロンの裾を握りしめた。