真夜中に時は止まる Episode2-1(続き) | かくれんぼ

かくれんぼ

私の物語の待避所です。
よかったら読んでいってください。

 

 

 

私と姉は実の姉妹じゃない。私は生まれた時から五歳になるまでシングルマザーの母に育てられた。父はいなかった。そのことに疑問を感じなかったし、不自由を感じたこともなかった。ただ、母の実家での暮らしは、今よりも充実していてカラフルだった。

 

母の実家は田んぼと山と海しかない新潟県の柏崎市にあった。母は朝から晩まで働いていたが、その代わり祖父母に丹精込めて育ててもらった。二人とも唯一の孫だからか私に対し優しく接してくれ、好きなおもちゃや可愛い洋服をたくさん買い与えた。昼になると近所に住む子供たちと一緒になって遊んだ。あぜ道を歩いたり、虫取り網を振り回したり。あの頃を思い出すと、悲しい記憶よりも楽しい記憶が沸き上がる。私にとって一番幸せな時だったかもしれない。

 

しかし、五歳になった時。祖母が突然亡くなった。そして、その後を追うように祖父も亡くなってしまった。まだ暑さの残る九月の出来事だった。母は、祖父母の死後、憔悴状態に陥った。それは子供の私の目から見ても一目瞭然だった。母には兄弟も従兄弟もいなかった。そのため、一人で葬式を執り行わなければなかったのだが、それすらもままならなかった。日がな一日泣き続け、葬式屋の人や役所の人が来ると厚化粧をして対応していた。そんな母に対して私はどうすることもできなかった。ただ、傍に寄り添い、背中をさすり続けた。

 

通夜や葬式などの法要がなんとか終わると、母はようやく吹っ切れたのか元気を取り戻し、また働きに出た。正直、そこまで急いで働く必要はなかったのだが、心の支えが必要だったのだろう。贅沢さえ望まなければ二人家族を養う分には十分だった。けれど、職場へ復帰して生き生きと活動する母を見ることは、とても幸せなことだった。祖父母がいなくなってしまったことは徐々に忘れていき、私たちはささやかな日常の中にだんだんと楽しさを見出していった。

 

そんなある日。私達は長岡へ行くことになった。私は喜んだ。なんたって久しぶりのお出かけだ。わくわくしながら支度をした。鏡の前でお気に入りの服を着て、かわいい髪飾りを付けた。けれど、対照的に母は忙しそうに支度をしていた。出かける前には、大きな荷物をボストンバッグに押し込み、私には大きなリュックを背負わせた。そして、すぐに市営のバスに乗せられ、行先も教えられず、ただただ固い椅子に座らされ続けた。これからどこへ行くのだろう。不安になりながらも、ゆっくりと流れる景色を見ながら静かに眠り込んだ。

 

着いたときには、もう田舎町はどこにもなかった。そこにはビルや商業施設が立ち並んで、今まで住んでいたところとは大違いだった。こんなところは見たことがなかった。私は舗装された道を訳も分からず歩かされた。母は地図を片手に私の手を引っ張った。長岡の町は都会の匂いがして、おしゃれな看板や店が沢山あった。道を進むたびに景色が変わっていく。目移りしながらずんずん歩いていくと、路地裏にある一軒の古い平屋の前に着いた。母はそこで立ち止まりチャイムを押した。ビーという音がそこら中にこだまする。数秒経つと、家の中から知らない男の人と女の子が出てきた。男の人は、母を見るなり嬉しそうに話しだし、女の子は私のことを恥ずかしそうに見つめてきた。きっと彼女なりの挨拶だったのだろう。

 

母は、私に対し、この人はお母さんの大事な人なの、と説明した。当時の私にとって、大切な人という言い方は理解ができなかったが、なんとなく家族になるのだろうと察した。それならば大荷物を持ってきた理由も分かる。私は、その日から知らない人たちと一緒に住むことになった。祖父母が亡くなった翌年の春の出来事だった。

 

最初、私も姉も戸惑った。姉は初めてできた妹に、私は初めてできた姉に。それでも、女の子同士ということもあり、案外早い段階で仲良くなることができた。同性同士ということもあるが、もう一つ、姉と私が六歳も違うという要因が大きい。小学校で言えば一回りも違う。十一歳の姉は嬉しそうに妹の世話を焼いた。そのお陰で、母は心置きなく仕事へ行けるようになった。

 

家族間の仲も良好で、すぐに信頼関係を築いた。夕飯は必ず家族揃って食卓を囲み、休日にはレジャー施設へ出かけた。毎週のように行っていたが、それも両親が共働きをしてくれたおかげである。数ヶ月経つと家計は安定し、将来について語ることもしばしば増えた。

幸せな時はとても長く続いた。家庭は順風満帆だったのだ。しかし、悲劇は突然やって来る。私が小学校六年生、姉が高校三年生にあがる手前。父がリストラにあったのだ。春休みのことだった。姉妹で市立図書館から帰ってくると、リビングには、咽び泣く父とその背中をさする母の姿があった。姉は持っていた重たいバッグを下に落とし、放心状態で両親の姿を見つめた。私はそんな家族の姿を見ながら胸騒ぎがした。まるで祖父母が無くなったときみたいだ、と。

 

それから、父は職業案内所へ行ったり、役所へ失業保険の申請をしに行った。そのお陰で、何とか半年分のお金は工面できることになったが、それでも収入は以前よりうんと減り、母は今まで以上に働くようになった。家を出る時間は早くなり、帰る時間は遅くなった。あとから聞いたが、母は水商売もするようになっていたそうだ。けれど、当時の私にそんなことは分からなかった。きっと、隠していたのだろう。それでも、日々やつれていく母を見ると、不安で仕方がなくなった。この頃から、私は姉を心の中で恨むようになった。母が父と出会わなければ辛い思いをせずに済んだのに。そう感じ始めたのだ。

 

母がやつれていくのと比例して、父は父で将来への不安やストレスを募らせるようになっていった。次第にそれは行動にも現れるようになった。最初は愚痴をこぼす程度だったが、日が経つにつれ朝から酒を飲むようになり、しまいには少しのことで大げさに反応するようになっていった。子供部屋で遊べば顔を真っ赤にして怒鳴りに来たり、朝の挨拶を忘れると大声を上げたり。父は徐々におかしくなっていった。また、気分が優れないのか、職業案内所へ行かなければならない日もずっと布団にもぐっている日もあった。じめじめした布団の中で籠る姿は今も忘れられない。これもあとから聞いたのだが、この時、父はアルコール依存症のような症状が出始めていたらしい。そのため病院にも行っていたそうだ。薬はもらっていたが、肝心の効き目はあまりなく、飲まない日も多かったため、症状は悪化していった。

同年の五月下旬。学校から帰ると、リビングの方から怒号が聞こえてきた。久しぶりに父の声を聞いた。もう一週間ほど父の姿を見ていない。この頃になると、父は家族が出掛けた後に起きだし、帰って来る前に部屋に戻る生活を繰り返していた。だから、声を聞くのも一週間ぶりだ。

 

また酒を飲んでいるのだろうか。私は父を刺激しないよう静かに隣の自室へ向かった。小学六年生になった今も姉と二人で使う共同部屋。鞄置き場を見ると、そこにはまだ何もなかった。つまりまだ姉は帰宅していない。ここ最近は特に帰りが遅い。それはそうだ。姉はもう高校三年生で来年には受験を控えている。どうせ国立の大学へ行くのだろう。そのために毎日のように図書館に寄って勉強をしていた。塾に行くお金なんてものはもちろんなかった。それに、家では暴れる父がいる。こんな環境じゃ勉強なんてできっこない。このことばかりは、姉に同情した。

 

私には受験なんてないし、この日は学校からの宿題は出ていなかった。怒号が止むまでリビングにも行けないだろうからゲームでもしよう。そう思いゲーム機を探したが、見つからなかった。そうだ、そういえば昨日の夜、リビングに置いてきたんだった。どうしよう。私は壁に耳を当て、父の様子を伺った。すると、いつの間にか怒号は止んでいて、とても静かだった。父はいなくなったのだろうか。それなら、今行くしかない。私は自室を出てリビングへ向かった。