少年は僕を丘の上まで案内してくれた。そこからの眺めが一番好きなのだそうだ。頂点まで達し、丘の下を見下ろす。すると、そこには、無数の十字架の群れが広がっていた。月光に照らされた白い十字架。こんな景色は今まで一度だって見たことがなかった。とてもきれいな景色。けれど、不思議と高揚はしなかった。高揚の代わりにやってきたのは無だった。心が落ち着いていくのか、高まっていくのか、沈んでいくのか、分からない。ただ、僕はその光景から目を離せなかった。
「どう?」
少年が僕に聞いてくる。
「これが君だよ。この場所が君の心なんだよ」
その言葉は僕を硬直させた。
これが、僕。
じゃあ、僕は今、僕の中にいるのか。意味が分からない。僕の中ってなんだ。これが僕なのか。恐ろしいこの光景が僕なのか。僕は後退りをし、倒れ込むようにして草地に座った。この草の感触も、星の輝きも僕なのか。
一体、僕は何なんだ。
僕は何。
少年はそんな僕を見て笑った。
「君は不思議なことを考えるんだね」
ああ、そうか、彼は…。
「いいかい、いいことを教えるよ。人は簡単に負の感情を忘れることはできないんだ。ほら、さっき埋めた君の苦しみや悲しみだってまだ浄化できていないでしょう」
少年は墓の群を指さした。
「でも、普通の人はすぐに浄化できるんだ。それが君は少し遅いだけ。たったそれだけなんだ」
体の芯がふっと熱くなった。
僕は昔から人から認められない人間だった。他人と折り合えない。自分を守ることに必死で他人の目ばかりを気にしてしまう。間違った発言をしていないか。さっきの行動はおかしくなかったか。そんなことばかりを気にして生きてきた。だから、気づいた時には僕は周りから浮いた存在になっていた。
自分の本心を隠して生きるのは辛くて悲しかった。陰口を言われても愛想笑いで返す。嫌なことをされても泣いてはいけない。いつの日からか僕は笑うことを忘れてしまった。されるがままの自分が情けなくて嫌いだった。明日には変われる。明日からは皆が優しくなってる。
そんな妄想をしてみても現実は一向に変わらなかった。
そんな自分の中の世界。それはこんなにも恐ろしいものだったのか。少年は僕の隣に腰かけた。少年の瞳が揺れる。
「ね、見て。あそこから光が見えるでしょう」
そちらに目を向けると、確かに一つの十字架から青白い光が漏れていた。その光は徐々に明るさを増していき、ついに十字架が見えなくなるほどの発光をみせた。そして、光が見えなくなった後、そこには何もなくなっていた。十字架さえもなくなり、地面が姿を現す。
「今、君の心の中で変化が起きた。いい方向にね。だから、苦しみが浄化された」
温かいものが胸に溜まっていく。
「他人は他人にはなれないし、君は君自身にしかなれない。だから、他の誰かみたいになりたいなんて思わなくていいんだ。君は君を生きればそれでいい」
少年の手が僕の頬を包む。
「僕は君の苦しみを誰よりも理解しているよ。君が毎日、苦しみながら生き抜いていることも、それでも立ち向かって頑張ってることも、全部知ってるから」
また、光が舞う。一つ、二つ、三つ…。幾つもの十字架が光となって闇の中を舞った。
どうしようもない感情が僕を支配した。嬉しさなのか安心感なのか分からない。でも、温かい気持ちが広がっていくのは分かった。ずっと一人だと思ってた。一人で立ち向かって、負けて、怖くなって、眠れなくなって。ずっと、ずっと、怖かった。毎日が怖かった。皆に会うのが怖かった。死にたくて仕方がなかった。
けど、僕は一人じゃないんだ。僕には彼がいるんだ。そう思うと堰き止めていた涙を止めることができなくなった。温かいものが頬を流れる。そんな僕を少年は優しく抱きしめた。
その時、上空から雨粒が降ってきた。少年は雨粒を見て嬉しそうに笑った。
「君が泣いたから雨が降った。ここの天気は君の喜怒哀楽によって変化するんだ。だからね、雨なんて久しく降ってなかったんだ。今、雨が降って、ちょっと、ううん、すごい嬉しい」
少年の笑う顔が幼く見えて、胸が締め付けられた。僕が泣けば雨が降り、悲しんでいると夜になる。怒っていると雷が鳴って、笑うと昼になるらしい。
今までここはずっと夜の世界だった。そう少年は言った。星は見えるし、月もキレイだけど、昼にはならなかった。陽はいつまでたっても登らなかった。夜がここを支配していたんだ。
僕らはずぶ濡れになった。お陰で涙と雨粒の違いが分からなくなってしまった。少年の指先が頬を撫でる。寒くはない。僕らは抱きしめ合っていた。
「ありがとう」
少年の肩に顔をうずめながら呟いた。
「どういたしまして」
頭をそっと撫でられる。優しく、壊れ物に触れるみたいに、丁寧に掌が行き来する。こんな幸せな気持ちになったのは初めてだ。満たされ
ていくみたいに、心が穏やかになっていく。まるで、キャンドルに炎を灯されるみたいだ。僕は少年を見つめながら微笑んだ。
その瞬間、地平線の向こうから光が溢れてきた。太陽が昇ってきたのだ。僕らは立ち上がり、そちらを向いた。少年は眩しそうに目を細めた。彼が小さく感嘆を漏らす。太陽は僕の鼓動と共に高くなっていき、輝かしいばかりの光を放ちながら頂点で止まった。暖かな日差しが大地を照らす。
その向こうに、白い扉が見えた。この時間ももう終わってしまうのだろう。少年の方を見ると、彼は少し寂しげな表情しながら扉の方に目を向けた。
「お別れの時間だね」
「うん」
また会える、とは、なぜか聞けなかった。もう一生会えない気がしたからだ。同時に、会ってはいけないとも、思ってしまった。
扉の手前まで行き、そこで立ち止まる。少年の手がドアノブにかかった。寂しさが胸を締め付ける。
「さ、行って」
扉が押し開けられ、目の前に夕暮れに染まった僕の部屋が浮かんだ。そちらへ一歩踏み出せばもうここへは帰れない。
帰りたくない。もっとここにいたい。
けど、立ち向かわなきゃいけないことが僕にはあるんだ。ずっとここにいちゃいけない。どれだけ居心地が良くてもここに居ちゃだめだ。次は現実に目を向ける番だ。
僕は繋がれた掌をぎゅっと握り扉の向こうへ足を踏み出した。扉がぱたりと閉まる。そして、扉は瞬時に消え去った。見慣れた景色が僕を包む。時計はあっちの世界へ行く前と変わらない時刻を差している。日付も何ら変わりがない。
日曜日が終わっていく。明日は月曜日だ。
けれど、もう恐れることは無い。大丈夫。きっと大丈夫。
僕は胸に手を置きながらそっと呟いた。