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水深三十メートル。ダイバーたちが好む水深だ。千景も好きなのだろう。伊達にプロのダイバーをしているわけじゃない。泳ぎ方が恐ろしく美しかった。ゆっくり進んで行くと、色とりどりの魚たちが僕らを出迎えてくれた。地上では見ることのできない彼らの奔放な泳ぎ。日の光も。水流も。全部が輝いて見える。この光景を見るたびに、いつからか心がざわめくのを感じるようになった。あの日感じたあの感覚のように。
一時間ほど泳いだところで、僕らは沖へ上がった。酸素ボンベとマスクを外し、潮風を思いっきり吸い込む。そして、そのまま砂浜に寝転がった。千景が笑いながら僕の隣に座った。
「どうだった?」
千景が尋ねてくる。迷いながら言葉を紡ぐ。
「どう、ねぇ。楽しかったよ。綺麗だった」
「ほんとに?」
「ああ、ほんとさ。ほんとにほんと。すごく、綺麗だった。ものすごく……」
語尾が空に吸い込まれていく。なんでなんだろう。あの美しい光景を思い出すたびに虚無感が胸を支配していく。苦しくて、どこかに逃げ出したくなる。格好悪い姿を見られたくなくて、僕は千景と反対方向に体を向けた。砂が顔にへばりつく。何怖がってんだろ。苦しみを抑えるように両手を胸元に押し付けた。
「抑えないで」
上から言葉が降ってきた。
いつだって千景は僕の欲しい言葉を欲しい時に与えてくれる。心をぎゅっと掴むみたいに。奥の奥が熱くなる。
その時、ずっと固まっていた心のしこりが溶けていった。水槽の中の光景と水中の光景が眼前に浮かぶ。ああ、そうか。そうだったのか。みっともない顔を千景の方に向ける。
「……分かったよ。やっと、分かった」
苦しみの原因はこれだったんだ。僕は、水槽の中に海を作れないのが嫌だったんだ。
水槽はどう頑張ったって本物には程遠い。どれだけサイズを大きくしたって、自然には成り得ない。動物園がいい例だ。人間は今まで試行錯誤しながら偽物のサバンナを作ってきた。本物のゾウを入れたって、本物のライオンを入れたって、そこに人の手が加われば一瞬にして人工物に成り下がる。
だから、アクアリウムで本物の海や川を作ることはできないんだ。それが、僕は悔しくて恐ろしかった。本物にどれだけ近づけても、本物は越えられない。偽物を作り続けることに対して無意識のうちに抵抗を感じていたんだ。
「ねえ、千景。アクアリウムは偽物なのかな」
偽物の自然。光も水流も人工物。それを作っている僕は、本物なのかな。千景は笑いながら言った。
「なに言ってるの。アクアリウムは自然よ」
さらりとした言い方に僕は唖然とした。
「だって、偽物じゃないか。自然じゃない。千景はいつも本物の海を見ているだろう?あれが自然なんだよ」
「バカね。だからって、アクアリウムが偽物になるわけないじゃない。アクアリウムは海の一部を切り取った自然よ」
「海の一部?」
「そう。それに、私は浩の作った作品大好き。潜れない日はね、いつも見てるの」
ふわりと笑う千景。ああ、どうしてこんなに。どうしてこんなにも近くに答えがあったのに。僕は千景を抱きしめた。強く離さないように、ぎゅっと抱きしめた。
アクアリウムは海の一部。その一言が僕の心に沈んでいった。暗く静かだった深海に、明るい光が差し込んだみたいだ。海の向こうで魚が跳ねた。
十月上旬。僕らは水槽の前で佇んでいた。
「プレオープンなんでしょ。私なんか来てよかったの?」
不思議そうに訊く千景。僕ら以外にいる人は少ない。関係者以外、原則立ち入り禁止。そんな日なのに?僕は笑って否定した。
「いいに決まってるよ。僕は、君に一番に見せたかったんだ」
青く光る水槽に二人の影が映る。水草も魚も、伊豆の海で見た景色を思い出しながらレイアウトした。
水槽のタイトルはマリンブルーの海。我ながら安直だと思ったが、それ以外に考え付かなかった。
動物園はサバンナに成れない。水族館は太平洋に成れない。だけど、自然を切り取ることはできる。だから、僕はこれからも
大好きな海を切り取り続ける。