差別意識。
この言葉を聞いて思うことが有る。
根底には仏教的な因果応報の考え方が有ったのだと思う。
これは絶対にいけない。差別と嫌悪を助長する言葉だ。
例えば、因果応報によって、前世の自分の悪事が、
現世で苦難の人生を歩ませる、つまり自分が悪いから大変な思いを、
という事は当然と冷たい目を向ける、それが因果応報の考え方が良くない理由。
因果応報という言葉は、差別意識を植え付ける原因。
社会の中の差別意識、底辺の実際的場面。
出かけると、電車の先頭車の運転席の後ろに「かぶりつき」をしている
障害者を見かけることがある。
その子たちはときに奇声を上げる。まわりの乗客たちは露骨に嫌悪の顔を向ける。
そして少しずつ避け離れる。
車椅子や杖をもった人がいると、奇異の顔を向ける。
しかし、だれも手助けはしない。
身体の欠損や形の違う人がいると、やはり同じように嫌悪の顔を向けて、
まるで見世物小屋の見せ物を見るような奇異の視線を送る。
実際に直面した風景だ。
わたしは、その人たちが危ない目に遭わないように、
今はそれとなく見守るようにしている。
以前、映画「おくりびと」を観た。
序盤で、自殺した子の死化粧の場面がある。
田舎の無理解と偏見差別の中で、性同一性障害で苦しむ、体が男性で心が女性、
外見も女性として生活しようとしていた子供が自殺した。
「こんなにきれいなのに・・・」と絶句する主人公。
理解していたのはその親、家族。
この子は女の子だ、と、
死化粧は「女性としてやってほしい」と。
田舎の、敢えてわたしは付け加えて言うが、
「頭の悪く知識の無い、差別偏見意識に凝り固まった田舎者」
たちの陰湿な差別嫌悪に悩んで自ら命を断った性同一性障害の子。
性同一性障害を障害とするかどうかは議論されてはいるが、
それよりも、他の精神身体障害者と同じように、
「他の人たちとは違う」という意味で、
差別嫌悪のターゲットになる。特に田舎では確実に。
「おくりびと」の話はここまでだが、
他の人と違っていて、何が悪いのか。
なぜ差別嫌悪されなくてはいけないのか。
誰かに迷惑を掛けたわけでもないのに。
むしろ迷惑をかけて知らん顔しているのは、そういうことをする傲慢な田舎田吾作のほうなのに。
実際にそういった田舎、地方でのこういった差別嫌悪と偏見に基づく、
嫌がらせや悪口も有ると聞く。当事者からの声だ。
ある例では、田舎の教員や、民生委員といった立場の者が、
平然と性同一性障害の人に対して酷い言動を取った、というケースが有った。
また、身障者の子供が悪口を言われるのを恐れ、遠くの施設に預け、
その事をひた隠しにする親もいた。
少なくとも教育や、公的立場にある者が、そういった差別的言動を平然と行うなど、
何が有っても絶対に許すべきではない。
そもそも、そんな人がその立場にあること自体が間違っているのだ。
教育者がそもそもダメなのだ。差別意識に対する意識改革がまるでなっていない。
人の心を踏みにじるような、心の貧しい教員や卑しい民生委員が、確かに存在する。
任用前に、きちんと人物調査をしてほしいものだ。

その人の育ちの、躾を受けてきた環境や親の問題まで遡及してしまう、
差別偏見嫌悪の問題。
特に、知識的に遅れている無知で実際には思いやりの無い、
偏見と排除意識の高く(心が貧しい)田舎者たちの存在は、
こういった差別問題を解消するにあたっての厄介な足枷だろう。
むしろ、排除されるべきは、そんな酷い行いをし反省しない者たちであるべきだ。
そして、様々な障害を抱えた人たちは、
こんな背景からそんなクソ田舎よりも都会のほうが暮らしやすいかと思う。
と、わたしは思う。