大人のいじめ。子供のいじめ。

 

人の本能は、暴力を以って他人を支配したがるものなのか。

 

世の中では、子供のいじめについて問題になっていますが、でも、大人でも、いじめ、って当然有ります。人間ですから、有って当然不思議ではないのですが。ダメな行為ですから全力否定します。

何を問題視しているかと言いますと、

 

子供のいじめは、助けてくれるであろう役割を持つ人(親、教師等)が必ず存在します。しかし、大人のいじめは、誰も助けてくれません。

 

そして、大人のいじめは子供のいじめにつながっています。

大人が、親がやっていることは子供もマネします。

 

酷い親の子は酷いことが多い。善悪の峻別ができないまま大人に成長し、同じことを繰り返すのだ。子供に「いじめはダメ」と言う前に、大人の悪事、いじめをなくさないと、根本的な解決は無理だ。

 

身のまわりにもそういった家族が何軒もあるが、「あの親かー、それであの息子娘か、仕方ないね」と思ってしまう。

実の親子でなくても同居して生活しているとか、その一族が全体的に不良傾向を持っていると当然ながら皆で悪い方向へと堕ちて行く。そうして、ろくでもない悪い一族一家が形成されてゆく。

外国で、犯罪傾向の有る一族の家系を調査した学術研究があったが、まさにそのままだ。悪人の子は悪人になりやすい、とデータが物語っている。残念だけれど事実のようだから敢えてここに書いておく。

 

 

以前にも同じことを書いたが、

自殺念慮の子供は多い。大人以上に多い。いじめが大きな要因になっている。
 

そして、大人、子供を問わず、弱い立場や状況に追い込まれ悩み苦しむ。真面目で繊細で、感性の豊かな、むしろ、頭が良く優れたものを持っている人間が正当な理由もなく追い込まれる。
言葉を荒くして言えば、「どうでも良いようなケダモノ」が「きちんとしたまじめな人間」に酷い事をしている、とも言える。決して許されない行為だ。

もっときつい言葉で言い換えてみる。
「価値の無い人間」が「価値のある人間」を攻撃する、とも言える。

 

以前にも書いたが、「自殺するやつは馬鹿だ」と大声で言う体育会系の筋肉脳みそ教員がいる。

そんな人物が教員なんかしていてはダメだ。明らかに不適格者だ。

 

そのほかにも、民生委員、主任児童委員が実は特に田舎では単なる名誉職でしかなく、実際はとんでもなく粗暴で悪い人物だったりする。表面では「偏見差別はダメ」とまことしやかに言うが、実際には軽蔑し陰で悪口を触れ回り、自ら近隣への迷惑行為を行い続ける、そういう資質を欠く酷い委員が実際に存在する。

所詮この程度なのだ。育て導き守るべき立場の側がダメなのだ。そして体育会系の中でも、水面下では相当数のいじめが横行している。

 

 

善悪をきちんと判断できる、慈しみの心を持った人間を育ててこなかった教育と社会が間違っている、その結果がこういった形になってきた。その前段として、まともな精神構造を持った教員を育ててこなかったのが主因だ。大元締の教育委員会そのものが腐敗している。教員の不祥事や問題行為が有って発覚しても、必死にもみ消して無かったことにしてしまう。匿名通報は確実にもみ消す。これではどうしようもない。このような現状では、親だけしか子供を守ってあげることはできない。情けないけど実態。

 

保護者も子供の事をもっと考えよう。例えば、子供の様子が何か変だと思ったら、もしかすると学校のイジメの可能性も有り、昨今の報道を見ていると、教育委員会や学校は隠蔽してきちんとした対応をしてくれないのが明白だ。あの人たちは所詮、御身大切しか頭に無い。公務員に期待しないほうが良い。

 

例えば子供が、音楽や絵画など芸術面に秀でているのであれば、とりあえずはそんな酷い学校など行かずに、得意分野の勉強や修練を、家や、そういった専門の先生に習いに行くほうが本人にとって幸せだろう。

つまらんいじめっ子たちのために、その才能を潰してしまってはもったいない。

 

外国では、学校に通わずとも、そういった分野で名を上げた人は歴史上にも現代でも数多くいるのだ。

学歴なんか、一部上場企業に就職するときでさえ、何の役にも立たない。

義務教育くらいの知識は、親でも教えてあげることは可能なはず。そうして、本人の得意分野を伸ばしてあげて、思いきって休学を選択し、転校する等のことは後で考えればよい。

 

その子供の命と、義務教育のためにと、つらい思いをさせてまで学校に行かせるのと、どちらが大切かを考えてあげてほしい。

自分の命を絶つという行為は、どれほど悲壮な思いをしていたのかを考えてほしい。

それより何より、子供の才能の芽を摘まないであげてほしい。怖くて行きたくない学校よりも、やりたいことをさせてあげるのを優先してあげてほしい。

 

 

大人の場合、
パワハラやセクハラ、ストーカー等は問題が顕在化されてきて、解決策も次第に講じられてきて、犯罪として検挙することも出来て、まあまあ良い方向に向かっているとは思いますけど。

 

 

 

ここで突然ですが、何年か前の、山口県で起きた殺人事件を思い出してください。

あれです、覚えていますか?

「火をつけて 煙よろこぶ 田舎者」とかいう川柳のあれです。

 

あの事件までの経緯を見ていると、田舎の中で色々と地域を良くしようと里帰りしたAは善意でがんばっていたが、被害者の田舎者(言いたくないが敢えて使います)たちがそれを無下に毛嫌いし、Aに対して地域ぐるみで嫌がらせや迷惑行為に及び、それに耐えて耐えきれなくなったAは思い余ってその田舎者たちを復讐のために殺した、というものでした。

 

もちろん、殺人は絶対にいけません。

しかし、経緯を見ていると、被害者たちや遺族には気の毒ですが、やられた側にも問題が無かったとは言えません。大きな落ち度が見受けられます。当時の報道を見返すと、風向きを考えずに農薬を撒いたり野焼きをしたり、A所有の草刈機を捨てたり、悪口を触れ回っていやがらせをしたり、色々と問題となる行為をしていたらしいです。

露骨な犯罪行為ならAはきちんと応戦できるのに、犯罪未満だから何の対処もAはできない、それを見越してのことだろう。そういう意味で被害者たちの行為は極めて悪質と思える。

 

考えてみましょう。

これは大人のいじめ、ですね。

 

報道が事実ならば、Aが殺人を犯す以前までは、圧倒的に悪い行為を行い強く非難されるべきは殺された人たちのほうです。この段階で、何らかの対処が出来ていれば、Aは殺人を犯す必要は無かったと思われます。

 

いじめられた側が、思い余って報復、自力救済を行ったという構図です。残念です。

 

この「何らかの対処」は、残念ながら現在の社会システムの中ではできません。

 

大人のいじめは、どこにでも普通に存在します。

 

いじめっ子のような意地悪な人(例えば田舎であれば主犯格はその地域の旧家や大地主)が必ず地域には何人か存在するものです。そういった人がわけの分からぬひがみ根性を発揮して、ターゲットとなる被害者(優しくおとなしい、頭の良い人が多い)に対して執拗悪質な嫌がらせや言いがかり、悪口喧伝を行い、そのターゲットにされたくない周囲は皆恐れて、自己保身を考えてその意地悪な人になびき従います。

そんな、酷い、いじわるばばあが、一家が、たくさんいる。

 

被害者は泣き寝入りするしか残されていない。あまりにも酷いことです。

下手すれば引越しを余儀なくされるケースもある。

思い悩み自殺するケースもある。

 

誰にも頼れず、相談もできずに、理不尽に苦しみを突きつけられる、この苦しみが、加害者には解ろうはずもない。

推測だが、田舎の狭い地域での新参者いじめ、ママ友いじめ。この2つが大人のいじめの大多数を占めるだろうと思う。道路族も関係あるだろうと思う。

 

できるならば、可能であればそんな酷い人たちが多い場所から脱出したほうが良いだろう。親子共々苦しむなんて、そんなの耐える必要はない。教育上も良くない。「孟母三遷」の言葉とおり、良い環境は大切。

 

大人のいじめ。形は子供のいじめと同じですが、誰もちからを貸してくれない、助けてくれない、それが大人のいじめの実態です。

 

この問題を問題視しないのか?悩んでいるのは子供だけでは無い。大人だっていじめっ子の魔の手から助けてほしいと思っている。

 

大人のいじめを解決すれば、子供のいじめも減って行くとは思いたい。

 

しかし、現状では軽犯罪法で取り締まれないものなのだろうか?

 

誰かと交わした約束を守ること。

 

人間として基本的な最低限の倫理でありルールである。

約束を守れない人は、道徳倫理に外れているだけでなく、

法律すら守ろうとしない傾向がきわめて強い。

 

その約束を守れない、しらばっくれて嘘をついて破棄する、そういう人は最低だ。

強い立場の者が、そういうインチキを平然と行って反省謝罪もしない。

 

「行きます」と言ってとんでもなく遅れてきて嘘くさい言い訳をしたり、

「やります」と言った後で「そんなこと言っていません」と破棄する。

 

そして、証拠が有っても徹底的に言い逃れをしようとする。問い詰めてみると開き直って逆切れをする。それは正にその人が落ち度を認めている裏返し、証拠なのだが、必死になって保身を図ろうと、更に嘘を重ねるが、その姿は全く以てブザマではある。

結果として嘘をついた事だ。どんな荒唐無稽な言い訳をしてみても詐欺だ。

高年齢の者でも、嘘を隠そうとしたり、自己弁護で言い逃れをしようと更に嘘をつく時は、精神的には幼児退行するようだ。追い詰められると、化けの皮を剥がされた悔しさからか、乱暴な言葉を年甲斐もなく吐き散らす。見ていてそれがよく判る。みっともない。

 

その、自らついた嘘や約束破棄は、回り回って結果としてその本人自身の首を締めることになるが、そのことにさえ気がつかない愚か者は多い。

 

うそ、とは、時と場合によっては法を冒す行為にもなり、その責任を問われる事さえある問題行為なのだ。

鳥のほうの「ウソ」ならかわいいが、人間の嘘は全くもって何の評価も与えられない。

意図的に重大な嘘をついて相手を酷い目に遭わせたら詐欺になる。それは言うまでもなく立派な犯罪だ。

「鷺」なら綺麗だが、詐欺は汚らしい。卑下されるものだ。

 

最低だ。人としての評価に価しない。

そんな人の言動は全く信用されなくなる。周囲からは密かに忌み嫌われ蔑まれ軽んじられるようになる。

そんな人のことは例え年齢や地位が高かろうと、敬う必要は無い。そのうちその地位から追い落とされる運命だ。

 

言い訳や言い逃れ、嘘をつき、しらばっくれは非常にみっともないばかりか、その本人自身の人格評価を貶め、周囲からの信用を失う惨めな結果になる。

言い訳の継ぎ接ぎは、必ず剥がれるものだ。逆切れの鉾は、必ず自身に帰ってくるものだ。

欺きの報いは、火炎の矢となって必ず戻ってくることを、忘れない方がよい。

結果的に高い代償を払わされることを覚悟した方がよい。

 

それともう一つ。

嘘や欺瞞を重ね続てけいる人に特徴的な表情がある。

表情が険悪になってくるか、顔が歪んでくるのだ。もしくは、パーツが、例えば口が曲がってくるのだ。

本人にはまるで自覚は無いようだけれど、ぱっと見ですぐわかる。

都市伝説かと思っていたけれど、本当にそうなるのだ。実際に見ているからよくわかる。

 

政治家でも顔が歪んでいる人、いるよね、嘘ばかりついている人ほど。

 

 

約束といえば、時間に関することも。

約束の時刻を常習的に守れないような人は何をやってもルーズである。

生活の中でも往々にして締まりの無い行動をとっているだろう。

昼寝をし、逆に未明まで起きて騒ぐなど、

その必要もないのに昼夜逆転生活をし、近所迷惑になっているような人も。

 

最低限、指定時刻の5分〜10分前にはその場に到着しているのが、まともな大人、社会人としてのマナーだ。

 

約束が守れそうになかったら、早めに相手に誠意を以って「もうしわけない、できない、間に合わない」と伝えるのが先だろう。そもそも、やる気の無い約束は、初めからしないほうが良い。

 

時間に関して、こんなことが有った。

通夜や葬儀に大幅に遅れて開式後に、大勢の一般参列者の前をぞろぞろ入って上座に座った親族とおぼしき一団。

そんなに近しい親族なら、渋滞が容易に予想される状況だったのだから、もっと早めに来ていれば済むこと。格好が悪い。頭が悪い。みっともない。ぶざま。その程度の人たちなのだろうか。こんな程度の非常識な人たちと親族関係でなくて本当に良かったと思う。

 

おまえは片寄っている、と言われるでしょうけれど、

そもそも既に片寄ってしまっている、

バランスがとれていない社会に対して批判します。

揺り戻しの意味を込めて。

 

 

体育会系の誤り。スポ根の勘違い。スポーツ偏重社会への疑問。

 

基本的に、スポーツをしていない人に対して、

マイナスイメージで語る人が多すぎる。

文化系は暗いとか、消極的だとか、そういうことを言い放つ。

 

本来、趣味も仕事もスポーツも、好みの事を各自勝手に、

やりたい人がやればよい。

やれない人だっている。

やりたくない人もいる。

 

そして、他人に多数派の価値観だからと言って押し付けるな。

それぞれの自由だし、それぞれの事情や都合もあるのに。

 

 

なのに、十把一絡げに言うのだ。

スポーツをしないとダメ、という話の流れになっている。

 

世の中全体が、思考回路も含め伝染病のように体育会系になってしまっている。

世の中全体が、体育会系に片寄りすぎてしまっている。

 

それが証拠に、

スポーツの「勝てば良い」は、実社会の「即戦力」「儲かれば良い」という、

速やかに結果を出すこと「だけ」しか重視されない、に繋がっている。

 

何かにつけ、ただ「勝てば」良い「だけ」、最終結果しか評価されない。

勝つための手段は、殆ど問われない。そして、同じように、

儲けるための手段は、殆ど問われない。

社会全体のモラルが低下するのは、これが主因だろう。

唯物論的な、結果論的な。そんな価値観と結合して。

 

そこには、弱い人、負けた人に対しての愛がまるで無いのだ。

弱肉強食という言葉まで持ち出して彼らは声高に語り憚ることもない。

 

そんな社会の中で、

スポーツをしていないと、まともな人間でないような扱いをする。

文化系への評価が無闇に低すぎる。

 

世の中が全部、体育会系のスポ根精神構造に完全支配されたら、

はっきり言って荒廃する。暴走するのだ。根性根性と、それだけ。

 

そんな精神論で暴走した悲惨な歴史を、日本人は忘れたのだろうか。

過去の戦争。軍隊が中心になって、精神論ばかりを重視し、

根性根性などと吹き込み、若者たちを戦地に送り込んだ。

 

今でも、日本の社会全体にその精神構造は染み付いたまま。

どこを見ても大日本帝国の軍隊のようなノリ。

体育会系部活動は最たるもの。この酷暑に我慢してトレーニングなんて、

根性以前のクレイジーな話なのに。命の危険も有るのに、

我慢とか根性とか。理性のかけらも見られない狂気としか思えない。

 

それはまさに、極論として言えば神風特攻隊と同じだ。

死をも厭わず戦うのか。精神の方向は同じ。

 

狂気を正当化するためにスポーツが有るのではないのに。

本末転倒だ。

健康を維持し、適度に楽しむためにあるのが本来のスポーツのはず。

「適度」を完全に忘れているとしか見えない。

 

蹴落とし、傷つけ、やっつけるというのは、それはスポーツではなく、

戦争と同じ。

殺戮をして人格形成が出来るのか。

それと殆ど同じ。

試合で勝つことだけしか頭に無い人に、人格形成が出来るのか。

 

ただ勝てば良いだけ。そこから導き出されるものは、

狭い了見。狭い視野。狭いものの考え方。そして傲慢さ。

その世界しか知らないということになる。

 

相撲力士が案外世間知らずだという話もよく聞く。

中学校を出てその世界に没入するのだから、

一般社会の事は、解ろうはずもない。

 

わたしは何度も聞いたことがある。

ある競技の選手が、他の競技を指して、

「あんなの何がおもしろいのか」と。

自分のやっている競技以外を否定するような発言だ。

お互いにそう思っているのだろうか。

だとすれば、その人たちは随分と了見が狭い、視野が狭い。

人格形成以前の問題かと思われ。

 

 

日本の社会全体に、

何事にも、薄っぺらい精神論中心の体育会系ノリがベースにある。

それ自体を、素朴に、疑問に思う。

 

スポーツを通じた人格形成、と、皆で申し合わせたように、

同じフレーズを繰り返し叫ぶのか。

それは本当にそうなのか、それぞれが冷静に考えたことは有るのか。

 

きっと、無いはずだ。

 

言っておくが、

スポーツ所以の人格形成は、無い。と見るべき。

 

文化系の領域では、犯罪のようなことは殆ど見聞きすることはない。

暴力やイジメなど、ゼロではないが殆ど聞いたことがない。

その必要が無いから。まず頭で考えるから、粗暴なことは不要。

問題を起こす素地が基本的に極小なのだ。

 

しかし、

体育会系は、部活動や社会人でも、イジメやしごき、暴力など、

枚挙に暇が無く、それが頻繁に繰り返されているのは事実だ。

特に個人格闘技系は目だって酷い。

どこかの柔道選手が性犯罪を繰り返したり、京都の放火犯も柔道をやっていたとか。

いくら立派な精神論を持ち出してみても、結果としてそういうことだ。

試合以外の場面では、法を守り己れを制する力が涵養されていないのだから。

 

試合で、きちんと「礼」をしていても、私生活では他人に著しい迷惑を掛け、

自分勝手で粗暴傲慢な振る舞いをしているのでは、人格形成を語る資格は無い。

 

何を意味するか、言うまでもない。

筋肉でモノを考えるのだ。いや、考えるまでに至らず先に筋肉が動くのだ。

それは頻繁に自分勝手で乱暴な行動に直結する。

だから、すぐに暴言を吐き、暴力を振るう。傲慢に振る舞う。そして反省しない。

 

スポーツによって我慢強くなるという。競技中は確かにそうかもしれない。

しかし、普段でも我慢強く自制が効くとは言えない。

むしろ練習や試合で溜まったストレスを発散すべく、

やりたい放題を働くケースが多々見られる。まさに本末転倒だ。

 

スポーツでの人格形成は、無い。

 

例えば、だ。

 

例えば柔道をやって人格形成とか言ってみても、スポ根を勘違いし、

勝つことばかりで頭が一杯になって、相手や周囲への慮りの脳力も無く、

まるで愛や礼儀の成っていない非常識な人が結構多いけれど。

 

「試合に勝てば良い」しか頭に無いから、とても身勝手で傲慢になる。

勝ち続けるとその傾向は顕著になる。特に個人格闘技系は酷い。

そんな実例を見ているからこれは断言しておく。

筋肉でしかモノを考えられないのだ。残念ながら。

 

結果として相手への配慮もできない、人格形成がまるでなっていない、

筋肉ばかりを鍛えてみても、脳みその精神性を全く鍛えていないような、

勘違い体育会系筋肉脳みそ人間より、

「**命」と言える、愛すべきヤンキーのほうが、よほど人間的に素直だ。

 

スポーツを全否定はしないが、特に個人格闘系に酷い人が多いのでこれは言っておきたい。

何度も言う。人格形成と運動は関係ない。

「試合や練習中に我慢強くなる」だけが、出てくる効果。

 

それと精神の総合的な質的向上とは、全く別物だ。勘違いしている人が多すぎる。

 

我慢、根性は、必ずしも美徳とは言えない。これを至上のものだとする、

そういったスポ根は、明らかに間違っている。

 

スポーツの極端な偏重は間違っていることに世が気がついていない。

全くバランスというものがとれていない。

「心技体」などと解ったようなことを言うが、

その一番大切な「心」だけがすっぽり欠落しているのが問題だ。

 

例えばそんな人物は、絶対に教職や公職に就いてはいけない。

職場や社会の中で、いずれ自身も必ず問題を起こす。起こしている。

 

そんなのが教員なんてやっているなんて、もう最悪だ。

自覚が無いのが最大の悲劇だ。

 

 

ついでに。日本人アスリートは過度に練習しすぎる。

だから練習中に故障したり本番試合でダメになったりする。本末転倒なのだ。

姿勢が根本的に間違っているから、そうなるのだ。

 

「勝つ」ことしか見えていない、自分の体の具合が見えなくなっているから。

木を見て森を見ていないから、だから肝心な時にあっさり故障する。

簡単なことのはずなのに、

なぜそれをだれも指摘しないのか。直前はイメージトレーニングで充分。

 

 

同じ限られた時間が与えられたら、精神と筋肉のどちらを優先して鍛えるべきか。

持ってゆけない「肉」の筋肉と、

持ってゆける「霊」の精神と。

霊的に賢い人なら答えはもうお解かりだろう。

 

 

今の社会が道徳的にも酷くなってきているのは、弱者が虐げられているのは、

体育会系ノリの責めに負うところが大きいことに、

気がつけ。

 

「勝てば良い」という薄っぺらい価値観が横行しているから世が悪くなることに、

気がつけ。

 

「勝ち負けの無い社会を」作ることが出来るのは、スポーツがメインではない。

偏重することの弊害をきちんを認識分析すべきだ。

 

人格形成、精神修養をする方法は、他にもいくらでも存在する。

スポーツ以外にも、いくらでも勝り優れた方法は有る。

ただ、それ以前に、その人の素地が一番問われるだろう。

 

 

誰にとっても良い社会を創るのに必ず必要なことは、

一番大切なのは、各自の精神性を向上させること。筋肉を鍛えることよりも、

優先すべきは、

まず第一に、

思索を深め、各自の霊性を鍛え、高めることのはず。

 

どうして、だれもこんな簡単な事を指摘しないのだろうか。