映画の後、
・フォーラム福島の支配人阿部さん
・『ガザ日記』に触発されて俳句の「生きるガザ」を作った中村晋さん
・Cafélogosを主催して、こういったイベントを企画・運営している渡部純さん
お三方のトークが1hほど実施された。映画以上に考えさせられる時間になった。
三人が別々に、連作「生きるガザ」を収録した中村さんの詩集から5句ずつ選び、それについて選んだ理由を述べたのが特に印象的だった。
全部を引用することはできないが、1句づつ紹介すると、
高校教師の渡部さんは
ガザに触れつつ受験子現代史厭う
の句を挙げ、ガザの虐殺について授業者が熱を込めて語れば語るほど、生徒たちは引いてしまい、寝てしまうという教室のリアルとシンクロする、と語った。
映画を上映する立場から、阿部さんは
月よガザは戦争映画のセットではない
の句を選び、ガザのリアルと映画のセットを対比するこの句が気になったという。
作者の中村さんは、
この星にガザあり驢馬につぶらな眼
を選んだ理由として、驢馬が好きだといいつつ、中東では荷物を運ぶのに驢馬が日常の中にあり、子どもたちが荷物を載せて驢馬を追う光景がよくある、という体験に触れている。
また、何かを言おうとするときに、強く主張するのではなく、そこに動物の存在を置くことが大切な面もある、とも。
その後、三人の話で、ガザの惨事がなかなか(日本の)人たちに伝わらないという話になり、
阿部さん
今、ドキュメンタリーはお客さんが入らないです。こういったガザの映画は特に、東京でも入らない。本来はエンタメの場所である映画館ではなく、テレビ局がこういう映画を買い取ってみんなに見せてもらうのが(本来の)役割ではないかと思うが、映画館がこれを担うのはどうなんだろう、という思いもありつつ上演している
と葛藤を感じている思いを述べ
中村さんは、俳句は元々「観る」ということが特徴であるということと、二つの別のものを出会わせることによって力を持つものだから、熱く語るというより、見えるものを句で示してくことなのかな、といい
渡部さんは、
いくら熱く語ろうとしてもそれは伝わらない。当事者性が重要なのではないか。そこでは、資料性、実際にどこで何が起こっているのかを提示して行かねば、
と述べた。
また、話し合いの中で、歴史的に考えればパレスチナの人たちが土地を追われる被害者であることは明らかなので、そういうことを教えていくことも大切なのだが、(安易な)政治的中立性という場所で思考停止してしまっているのではないか、との指摘もなされていた。
そして最後に阿部さんから、(ドキュメンタリーだけではなく?)映画の持っている物語性が重要になる、『アラビアのロレンス』など今から観れば違った見方が必要だが、劇的な物語によって多くの人に届けるということは考えられてよいのではないか、とも。
当事者性の問題、政治的中立性の問題、物語性の問題
私はその三つを、ここで話し合われたことの重要なポイントとして受け取った。
その三つについて、項を改めてもう少し書いておきたい。